衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年12月21日    木曜日     第1開示 合計4082開示

心が空であればあるほど、成就します。

凡夫から仏に成るまでの全過程は、一切の法が空であることを証得する過程であり、絶えず相を破り、見解を破り、執着を破り、心を空じ、一切の法を空じ去る過程である。心が空でなければ、法を実在と見なすのは無明である。一つの法を実在と見なすことが無明であり、その法があなたを束縛し、障害を与え、解脱自在を得られなくさせる。たとえ仏に成るという法を実在と見なし、空でないと考えることも、同様に無明である。無明をことごとく破り尽くして初めて仏となる。仏に成りたいという心があるなら、心はまだ空ではなく、妄想があるため、仏になることもできない。もちろん凡夫と三賢位の菩薩は依然として仏に成りたい心を持つべきであり、仏に成ることを希求すべきである。これは自らの道業を堅固にする礎である。三賢位を過ぎ、法我見と法執を破る必要がある段階になって初めて、漸次に一切の妄想を破ることができる。心が空寂となり清浄になった後、何ものをも造作する心がなくなった時、無相・無願・無作の境地に至り、この時こそ真の大成就が可能となる。

須菩提は母胎の中ですでに心が空寂であり、出生後に空生と名付けられた。仏陀に従って出家修道した後、心はさらに空となり、有相の仏さえも心中から空じ去り、仏相に執着しなかった。仏陀が天界で四十九日間説法し、終えて天上から人間界に戻られた時、弟子たちは皆仏陀を出迎えに行ったが、須菩提のみは林の中に端坐し、法身仏を念じ、有相の仏に執着せず、仏の説法の法会さえも生滅幻化のものであると知っていた。そこで仏に会おうともせず法会にも参加せず、寂然として禅坐した。仏は讃嘆して言われた:「お前は私を出迎えに来なかったが、お前が最初に私に会った弟子である」と。この「私」とは法身の無相真仏を指し、有相の報化身仏ではない。万法はことごとく空であり、報化身仏もまた空である。一切の後天的に造作された有為法はすべて空であり、仏が無量劫にわたって衆生を度すという偉大な事業さえも空である。

八地菩薩までは有為法の造作が多いが、八地菩薩に至って心が空じると、三宝を供養し、衆生のため、仏教のために事業を行う心さえも空じる。ただ無心のまま任運に一切の利生事業を行う時、初めて仏は授記を与えて仏となることを認める。もし心が空でなく、有為の心で有為法を造作し、有為の心で三宝を供養することも含めて、これによって大功徳や大福徳があると考え、心中で法を取って空じないなら、仏は授記を与えて仏となることを認めない。たとえある菩薩が生生世世無量の諸仏を供養し、自らの一切を捨てて供養し、三千大千世界の珠宝をことごとく供養に用いたとしても、仏は授記を与えない。ましてや世俗の有為法を造作することは、さらに授記を得られない。しかしこれらの有為法によって福徳を増すことができ、福徳が増すことで智慧が成長し、心が次第に空となり、最終的に福慧両足尊となることができる。だから一切の法がことごとく空であるからといって、何の善法も修める必要がないと言ってはならない。善法を修めなければ福徳の支えがなく、空の智慧は現れず、心はさらに空じ尽くすことができない。

福を修める時も、心を可能な限り空じ、無所得の心行をもって福を修めるなら、その福はより大きい。たとえば衆生を度す時、衆生を度せば度すほど自分に功徳福徳があると感じてはならない。実は衆生を度すことを通じて絶えず福徳を増し、その後心空の功徳が現れ、心がますます空じ、ある程度空じた時、修行は成就する。福徳の多少を測る鍵は、衆生を度す過程で心がどの程度空じているか、どの程度の無為に達しているかにある。心が空無為であることが菩薩の智慧の証量と果位を決定する。

だから外見の相に重きを置いてはならない。もし相の上で転じ、相に執着するなら、たとえ一年に百冊の本を書こうが、一年に数十万の衆生を摂受しようが、数億を布施しようが、これらはすべて有為法であり、その中に明らかな我執と法執があり、相に着いて心が空でなければ、智慧の証量と相応しい菩薩の果位を得られない。大福徳を具足した時のみ、証悟することができる。如来蔵を証得した後、自らの種々の行、福行を含めて観察すると、これらの行がすべていかに生滅不実であり、いかにすべて如来蔵の機能作用であるかを知る。実際の理地には、これら有為の法相は実在せず、こうして心はますます空じ、修行の成就もますます大きくなる。

法執を破る道は非常に長く、初地菩薩から仏に成るまで、二大阿僧祇劫の修行において、常に法執を破っている。これ以前の一大阿僧祇劫は我執を破っている。だから我見を断じ尽くす修行の道もまた長い。意根の無明は非常に深重で、執着性が大きい。意根の執着を破るには、まず意根の知見を破り、その思想を破らねばならない。それが意根の我見を断つことである。我見を断除した後、我執を漸次に破り、さらに意根の法我見と法執を破る。一切の法が実在であるという知見を少しずつ破り、最後に無明が滅尽し、心がすべて空じた時、仏となる。修行成就の大小は、無明がどの程度破られたか、心がどの程度空じているかによる。心を空じ相を破るには、必ず如来蔵を実証し、さらに一切法の不実性を観察しなければならない。

仏が父殺しの悪業を造った阿闍世王の業を消したのは、空の理を用い、彼に理を明らかにさせ心を空じさせ、それによって罪業を滅除させたのである。阿闍世王は父を殺し、最後には非常に悔恨し、自分は死後必ず地獄に堕ちると思い、心は耐え難く苦しんだ。なぜ彼はこれほど苦しんだのか?彼が父を実在と見なし、自分自身を実在と見なし、父を殺したことを実有と見なし、地獄をも実有と見なしたからである。そうしたらこれらのいわゆる実有の法が彼の心を縛り、罪悪感から抜け出せず、命終には必ず悪報を受けることになる。そこで仏は阿闍世王に、父殺しという事柄は三輪空であり、父という人は空、自分という人は空、父を殺したという事柄は空であり、人も事も実在しないと説かれた。最後に阿闍世王は空に対して信根を持ち、父殺しの性罪が滅除され、命終して極楽世界に往生し、地獄に堕ちて報いを受けることはなかった。

同様に、証果や開悟といったことも空であり、衆生を度すことも含めて実在ではない。一切の法を空と見なし、心中に人も事もなければ、解脱する。夢の中で人を殺し、目覚めた後も自分が人を殺したと思い込むなら、心はまだ夢の中にあり、目覚めていない。ただ心の中に法が存在する限り、その法はあなたを束縛し障害を与える。ただ心中に法がなくなった時、どんな法も障害とならず、自分に何の影響も与えなくなる。空の力は極めて大きく、一切の無明と業障を破り、一切の苦難と生死の繋縛を破ることができる。ただ心が空である時のみ解脱し、空王法王となることができる。


——生如法師の開示
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菩薩の心は空にして、五蘊に住まず修めず

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阿闍世王はなぜ地獄の業を滅して極楽往生することができたのか

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