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日常法話

2023年12月04日    月曜日     第1開示 合計4067開示

心法と色法における物質的性質なき触

問:識心は色身の内外と中間に存在しないのに、なぜ六識が大脳の勝義根における根と塵の触れ合う場所で生じると言えるのか。

答:勝義根を持つ衆生にとって、六識が生じるための前提条件と必要条件は、根と塵が触れ合うことである。触れた後に六識が生じる。根と塵の触れ合いには、外五根と外五塵の触れ合い、意根と外法塵の触れ合い、内五根と内五塵の触れ合い、意根と内法塵の触れ合いがある。しかし外五塵と法塵は六識が触れることができない。なぜならこの時点ではまだ六識が存在せず、七識と八識のみがあるからである。したがって外の根と塵の触れ合いでは六識を生じさせられない。内の根と塵の触れ合いによってのみ六識が生じ、六識が了別する対象は全て大脳の勝義根における内六塵である。

一方、意根が了別する対象には内塵だけでなく外塵も含まれる。この外塵は如来蔵が最初に生じさせた本質境(本質的な境)ではなく、本質境の後に如来蔵が変じて生じさせた塵境(微細な対象)であり、意根はこれを了別できる。この外塵が勝義根に入って内塵となった後、意根が詳細に了別したい場合、あるいは何らかの造作(作為)を行いたい場合にのみ六識が生じ、了別と処理を行う。そうでなければ、内六塵が存在し六根と触れ合っていても、六識は生じず了別も行われない。

六識は大脳の勝義根において生じるが、六識は形がなく相もない。有相の色法(物質的要素)ではないため、色法である勝義根と触れ合うことはできない。したがって勝義根の内外や中間に存在しない。このように、六識の生じる場所があったとしても、それはあたかも無い場所であるかのようだ。そうでなければ、大脳の勝義根を一片ずつ切り分ければ六識を見つけられるはずだが、実際には大脳を粉砕しても六識を見ることはできない。意根も同様に、形がなく相もなく、全ての塵に触れ、内外の塵を了別するが、内外の塵の上には存在しない。根が塵に触れるという「触」は、物質的な意味での接触ではない。識心も物質ではない。私たち凡夫は、物質と非物質の間の触れ合い、あるいは非物質同士の触れ合いを理解し想像することはまだできない。往々にしてこれら二種類の触れ合いを、物質同士の接触のようなものと誤解してしまうが、実際はそうではない。それゆえ識心は色身の内外や中間に存在しないのである。

もし非物質的な属性を持つ触れ合いを理解できれば、如来蔵と一切の法(諸現象)の触れ合いについても理解しやすくなり、如来蔵が一切の法の上にありながら、一切の法の内外や中間には存在しないことを知ることができるだろう。もし世俗的な意味での接触という概念を離れることができれば、八識(八つの識)を理解し証得することはさほど困難ではなくなる。


——生如法師の開示
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