如来蔵の見分とは、如来蔵が法を見る機能作用であり、如来蔵は五遍行心所法である作意・触・受・想・思の働きを通じて一切の法を見、法を摂取し顕現させます。この時、末那識である意根はじめて法を見ることができ、それ以前は如来蔵のみが単独で見ています。しかし意根は如来蔵の見分機能を見ることはできず、成仏後もしくは地上の菩薩のみが如来蔵の見分機能と心所法の運行を見ることができます。凡夫や地前菩薩の意根にはこのような大智慧と禅定力がなく、幾地の菩薩であっても必ずしも明確かつ円満に見通せるわけではありません。
八識が法を見る作用は、いずれも各々の五遍行心所法によって実現されます。如来蔵自体も識種子を有し、識種子が絶え間なく運行することで如来蔵の行相が顕現します。如来蔵は種々の法に対し、作意・触・受・想・思という五遍行心所法を運行させ、法を了別し処理します。その機能は七識の受・想・思とは一定の差異があり、如来蔵の五遍行心所法の運行にはいかなる煩悩や無明も混じらず、無心の運行状態に属し、任運而行、随法而行とも称されます。この中で受は境界に入らず、想も複雑な思想活動を伴わず、思はただ択び造作し、法の維持管理を行うのみです。一方、七識の五遍行心所法は運行過程で無明や煩悩が混在し、種々複雑な心念を伴い、無心の運行状態ではなく、境界の影響を強く受けます。
七識も各々識種子を有し、その見作用も五遍行心所法に依って運行されます。五遍行心所法の運行過程では、若干の煩悩や無明が混在し、善悪の心所法及び不善不悪の心所法が併起する場合もあります。五遍行心所法が運行された後、七識は見聞覚知の機能作用を具えますが、七識に煩悩心所法が現起するため、七識の見聞覚知には一定の遮障作用が生じ、法を見ることに真実性と正確性を欠き、多くの誤解を招きます。この誤解が悪業を造作し、悪い因縁果報を形成することとなります。
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