証悟以後、とりわけ道種智を得たときには、如来蔵 (tathāgatagarbha) の行相を現量で観察でき、七つの識の行相と明確に区別がつき、七識・五陰 (pañca-skandha) の中に堕することがありません。例えば小豆と緑豆が混ざり合っていても、すぐに見分けがつき、涇渭分明で、いささかも曖昧ではないのです。五蘊の身の中で、どの法の運行を観察しても、すぐに如来蔵がどのように運行しているか、六つの識がどのように運行しているかを観察できます。第七識の運行の観察は比較的困難ですが、ある段階に至ればやはり観察できるはずです。八つの識の行相を現量で観察する過程において、第六識と第七識の行相は分けられず、混同しやすいかもしれませんが、如来蔵の行相はすぐに見分けられるはずであり、六識・七識と混同して真妄を知らない、というようなことにはならないでしょう。
だから如来蔵は現量で証得できるのです。如来蔵の体は見ることはできませんが、その行相と機能作用は現量で観察することができ、如来蔵の相と用を通じて、見ることのできない如来蔵の体を証得できるのです。如来蔵の体と世俗法の体には本質的な違いがあります。世俗法の体――六塵の境界は、五識によって見られ、了別され、意識ならなおさら容易に見分けられますが、如来蔵はそうではありません。それゆえ如来蔵の行相はきわめて微細であり、般若 (prajñā) の智慧が不足しているときには、根本的に見ることも観察することもできません。だからこそ、多くの人が如来蔵はただの名前にすぎず、体は空であって実在しない、と言うのです。このように言うのは誤解があまりにも大きく、自分自身の菩薩道の業に対する遮障が大きく、成仏は期すべからざるものとなってしまいます。
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