八つの識心は、六塵のような具体的で目に見える相貌はないが、それぞれに運行する行相(ぎょうそう)があり、これが心の行相であり、心所法である。無相の行相も観察され感知され得るため、これもまた一つの相と言える。七つの識心の運行する行相は如来蔵によって幻化された仮相であり、名付けられたものに過ぎず、生滅変異するものであって真実ではない。如来蔵そのものの運行する行相は法爾(ほうに)として存在し、如来蔵の本体に依って存在するもので、他の法から生じたものではなく、常に存在し運行しており、無余涅槃の中にあっても絶えず運行を続け、滅したことはない。
如来蔵の本体は形も相もなく、誰も見ることができず、仏でさえも見ることはできない。しかし本体が作用を起こせば、行相が顕現する。悟りを開いた後には如来蔵の作用を見ることができ、如来蔵の相を明らかに理解するようになる。一切の法は実は全て如来蔵の相であり、また如来蔵の作用である。如来蔵の五遍行心所法は、初地以上の菩薩と仏のみが観察し得る。悟りを開けば如来蔵の功用と運行の軌跡を見ることができ、七つの識の行相とは区別される。一切法の運行過程において、八つの識は和合して一体となり、相互に分かち難く作用して初めて法の運行が成り立つ。この中では真に魚目混珠、龍蛇入り混じっていると言える。道眼が通明に至って初めて、魚の目と宝珠を見分け、龍と蛇を区別することができるようになる。
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