衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年11月25日    土曜日     第1 回の開示 合計4059回の開示

極楽往生に必要な善根・福田・因縁とはどのようなものですか

善根の善とは、仏法において善き心と清らかな心によって修める善業、行う善行を指します。例えば深く心から三宝に帰依し、三宝を供養し、正しく仏教を信じ、戒定慧を精進して修め、相当なる福徳と仏法の理念を備え、もはや世俗の法を重んじず、大菩提心を発して一切衆生を救済せんと誓願することです。三宝の教えに背かず、仏の説かれた一切の経典を深く信じ、教導に随順し、喜んで修練し誹謗せず、仏に教化され、仏の深い恩徳を感じ、身心の全てをもって佛法僧三宝に報いんと願うことなどが挙げられます。善根の根とは、器量を意味し、既に種となったことを示し、基礎が堅固で揺るぎないこと、善法が深く心に宿ったこと、そして善法善果を生じる力を意味します。この善根がなければ、極楽浄土及び諸々の上善人と相応せず、相応しなければ極楽世界に共に住することはできません。

以上は善根の定性的な記述であり、定量的に記述することは不可能です。善根の深浅を判定する基準を具体的に示すことはできず、相当の経験と智慧を備えた者だけが理にかなって真実を見極めることができます。経験と智慧がなければ、たとえ基準を示されても真実の判断を下すことはできません。これは世俗法の判断と同様で、大学教授と講師の評価基準があったとしても、小学生や中学生には真実の判断がつかず、素人が専門家を、下位者が上位者を判断できないのと同じです。

仏法修持の程度の判断はなおさらであり、大多数の者は未熟な段階にあるため、ある人物が善知識であるか、悟りを開き地に入ったか、説く法が真に仏の意趣に適っているかなどを判断できません。たとえ基準答案と照らし合わせても、真実の判断はできないのです。よって衆生を深く害する邪魔外道に対しては、仏菩薩や護法神が密やかに処置されればよく、衆生に経緯を説明する必要はありません。後日、長い思索を経て次第に理解する者も現れるでしょう。

福徳に関しては、当然ながら極楽浄土の衆生や天人の福徳に相応し、極楽世界の福を享受する資格を備えていなければなりません。つまり既に膨大な福徳資糧を積み、命終えて往生を果たし、最終的に極楽世界でこれらの福徳を享受するのです。これほどの福業を種まきしていなければ、大福を享受できず往生も叶いません。この種の福とは主に清浄なる福を指し、戒律を保つ福、禅定の福、念仏の福、智慧の福、三宝を恭敬し信楽する福などが挙げられます。これらの福は全て仏法を学ぶ功徳と相応するもので、娑婆世界で享受できる栄華富貴のような世俗の福ではありません。

往生の因縁とは何を指すのでしょうか。因縁とはつまり条件であり、因とは修練によって得た善業の種子、例えば念仏の功徳による一心不乱、娑婆世界への執着を捨てた心の倒錯なき状態、戒定慧を具足し貪瞋痴を降伏させ、ひたすら極楽世界を向往し、仏となって衆生を救済せんとする心です。縁とは善業の縁が熟し、善き友人に助けられ、悪業が現前せず、怨親債主が遠ざかり、障害なく、修めた福徳と功徳が命終わりに諸仏菩薩聖衆の授手迎接を感得することです。善根・福徳・因縁の全てを具足した者だけが極楽浄土に往生でき、一般人の修持が不足すれば往生は叶いません。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

往生後、蓮華の台において何の法を薫習するか

次の記事 次の記事

無住相は初地に至って初めて可能となります

ページのトップへ戻る