阿弥陀経の原文:もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の説を聞き、名号を執持し、一日あるいは二日、三日、四日、五日、六日、七日に至るまで、一心に乱れず。その人、命終わらん時に臨みて、阿弥陀仏と諸の聖衆、その前に現じたまわん。この人終わる時に、心顛倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生を得ん。舎利弗よ、われこの利を見るが故にこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞く者は、まさに願を発して彼の国土に生まるべし。
釈:もし善男子善女人が極楽世界に阿弥陀仏がおられることを聞き、往生を願って阿弥陀仏の名号を称えるならば、ある者は一日で一心不乱の境地に達し、ある者は二日、三日、四日、五日、六日、七日とそれぞれの期間を経て一心不乱の境地に至る。この人が臨終を迎える時、阿弥陀仏と聖なる衆たちがその者の前に現れる。この者が命を終える時、心が乱れず、娑婆世界の一切の人事に執着しなければ、阿弥陀仏の極楽国土へ往生できる。舎利弗よ、私はこのような殊勝な利益を見たからこそ、この言葉を説くのである。もし衆生がこの説を聞くならば、必ず願いを起こしてその国土に往生すべきである。
仏はここに往生の条件を明確に説かれている。一心不乱に修行し、念仏三昧を成就させ、かつ命終の時に心が乱れず、娑婆世界への執着を断つ必要がある。もし娑婆世界を思い続けるならば、たとえ阿弥陀仏と聖衆が面前に現れても接引されることはない。これはたとえ念仏によって命終の時期を予知できたとしても、往生が保証されないことを意味する。臨終時の禅定は不確定要素であり、心の状態や業力も変動要因である。定力が失われ心が散乱し、雑念が生じれば、往生は叶わない。
一心不乱の境地は達成可能だが、臨終時に心が乱れないことが肝要であり、これは極めて困難である。臨終に業障が現れ、怨親債主が訪れれば、心を乱さずにいる者は稀であろう。一念の貪愛が生じれば往生できない。信心の在り方やその程度、願いの内容、実践の方法など、信願行の内容は深遠である。往生を願うならば、まず坐禅三昧経の冒頭で仏が説かれる「諸々の心を治める方法」を学び、心を調えて乱れなき状態を保つべきである。
高齢者や病を患う者は、行門に精進し、不必要な法解釈に時間を費やすべきではない。臨終時は今生の実践が来世の方向を決定し、解釈だけでは決定的な作用を持たない。浄土を求める最も重要なのは願力と願行であり、心の念力が肝要である。願力を堅固にするには、世間の苦を深く認識せねばならない。苦を悟らねば、貪愛によって心が懈怠する。多くの学仏者は修行歴に関わらず、悠長に過ごし日々雑多な情報に接し、修行への正しい認識と計画を持たず、来世への無知から恐怖心もない。これは初心者の特徴である。
念仏法門を学ぼうとする者は、浄土初祖慧遠大師の修行事跡を学ぶべきである。大師が如何に修行され、どうして三度も三昧の中で聖像を拝することができたのか。我々は如何に精進すれば命終時に浄土往生を確実にできるのか、その修行の在り方を深く考えるべきである。
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