衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年11月23日    木曜日     第0開示 合計4057開示

阿弥陀経における往生の条件

阿弥陀経原文:もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の説を聞き、名号を執持し、一日であれ、二日であれ、三日であれ、四日であれ、五日であれ、六日であれ、七日であれ、一心に乱れず。その人、命終わろうとする時に、阿弥陀仏と諸々の聖衆、その前に現ず。この人、終わるときに心が乱れず倒れず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生を得る。舎利弗よ、我はこの利益を見るが故にこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞く者は、まさに願いを発してかの国土に生まるべし。

釈:もし善男子善女人が極楽世界に阿弥陀仏がおられると聞き、往生を願って阿弥陀仏の名号を称え、あるいは一日称えて一心不乱の境地に達し、あるいはそれぞれ二日、三日、四日、五日、六日、七日と称えて一心不乱の境地に達したとする。この人が臨終を迎える時、阿弥陀仏と諸聖衆がその人の前に現れるであろう。この人が命を終える時、心が乱れず倒れず、娑婆世界の一切の人や事物を思わなければ、阿弥陀仏の極楽国土に往生できる。舎利弗よ、私はこのような殊勝な利益を見たからこそ、この言葉を説くのである。もし衆生がこのような説を聞くならば、まさに願いを発して阿弥陀仏の極楽国土に往生すべきである。

仏はここで往生の条件を明確に説かれている。一心不乱に修め、念仏三昧が現れ、かつ命終える時に心が乱れず倒れ、娑婆世界を思ってはならない。もし娑婆世界を思えば、たとえ阿弥陀仏と諸聖衆が面前に来られても、お帰りになり、引き取ることはできない。この意味は、念仏してたとえ命終える時を予知する境地に至っても、往生が保証されないということである。なぜなら臨終の際の禅定は変数であり、固定不変ではなく、心念と業力もまた変数だからである。定力が一度消えれば、心は散乱し、雑念が生じ、もはや何も語ることはできない。そして定力に影響を与える要素は多く、臨終の際に何らかの因縁が現れれば、心は散乱し、往生は不可能となる。

一心不乱は達成可能であるが、臨終の時に心が乱れず倒れないこと、これが肝要であり、非常に容易なことではない。臨終の際、もし業障が現れ、怨親債主が訪ねてくれば、心が乱れず倒れない者はおそらくほとんどいないであろう。一念の貪りが生じれば往生できない。信とはどう信じるか、どの程度まで達するか。願いにはどのような心の願いを持つべきか。行いにはどのような行動をすべきか。何をなすべきか。信願行の内容は非常に豊富である。もし往生を願うならば、まず坐禅三昧経の冒頭部分で仏が説かれた様々な心を治める内容に触れ、心を調えて乱れないようにしなければ、往生の望みがある。

年配の方、病のある方は、行の面でより多く修行に励み、不必要な法解釈に時間を費やすことを控えるべきである。なぜなら臨終の際は、この世の行いが来世の趣向を決定するのであり、解いた法は決定的な作用を持たないからである。浄土を求める最も重要なのは願力と願行であり、心の願いと心念の力が重要である。願力を堅固にしたいならば、必ず世の苦を深く認識しなければならない。もし世の苦を知らなければ、心は貪愛によって懈怠する。多くの学仏者は、どれほど長く学んでいても、心はのんびりとして緊迫感がなく、毎日あちこちを見て回り、何にでも興味を持ち、秩序なく知識を吸収し、修行に対する正しい認識や計画がなく、来世に対しても無知で恐れない。このような人は往々にして仏教初心者であり、初生の牛は虎を恐れず、仏教初心者は苦も死も恐れない。

念仏の法門を修学したいと思う方は、まず浄土初祖である慧遠大師の修行の事跡をご覧ください。大師がどのように修行され、なぜ三度も三昧の中で聖像を拝することができたのか。私たちはどのように修行に励めば、命終えて浄土に往生できることを保証できるのか。

——生如法師の開示
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往生後、蓮華の台において何の法を薫習するか

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