現在多くの人々が如来蔵への依止について語っていますが、どれもやや捕らえどころのない印象があります。なぜなら、私たちが何かに依存しようとする時、まずその対象を見つけ、理解し、その価値と信頼性を判断し、依存する方法と条件、結果を考察する必要があるからです。如来蔵に依止する場合も同様のプロセスを踏むべきです。例えば大樹に寄りかかって休む場合、まず正確にその木を見つけ、観察し、適切な位置を判断し、座布団を敷いて初めて依頼できるようにするのと同じ道理です。
如来蔵に依止するには、まず明心見性を証得し、その普遍的性質を遍く観察し、誤解なく理解して初めて依拠できます。身心世界が変容を始め、五蘊への執着が薄れ、世間への認識が空へ向かう時、心性が如来蔵に近づきます。貪瞋痴の煩悩が除かれ、心性が転換した時、初めて依止が成就し、六・七識が智に転じ、初地以上の菩薩となります。
もし貪瞋痴が残り、智慧が未熟なら、如来蔵から遠く、転依とは言えません。五毒満ちた元の身心では、無明に依る状態です。如来蔵証得後、五蘊十八界の運行においてその働きを観察するには、別相智・後得智、さらには道種智が必要です。推測ではなく現観によって初めて真実を把握でき、身心に触発が生じ、清浄と染汚、無心と有心の対比から慚愧心が湧き、如来蔵の心性に染まり、煩悩を断じて転依が成就します。
如来蔵の清浄性は五蘊・六根の作用において観察されます。色を見る時、音を聞く時、香り・味・触・法を覚える時、如来蔵が如何に清浄無私で衆生に奉仕するかを観じ、七識を浄化します。こうした観察を重ねることで、心行が変化し、人法二空の智慧が生起し、第六識に妙観察智、第七識に平等性智が現れ、転依が成就します。未証悟の者が安易に転依を語るべきではなく、証悟直後も煩悩多く、如来蔵の境地とは程遠いのです。
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