衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年10月27日    金曜日     第1開示 合計4040開示

識心の認識がどの程度に達したら智と呼べるのか

心識が法を認識するには異なる段階あるいは程度があり、煩悩の覆いが深刻な認識は往々にして邪知邪見である。煩悩の覆いがやや軽い認識は時に正しいこともあるが、それはあくまで以前の誤った認識に比べてのことであり、完全に正しいわけではない。その知見はただ正しい方向へ若干修正されたに過ぎず、心識にいくらか慧の力が生じたものの、まだ智とは言えない。智とは煩悩の覆いがなくなった後の正しい認識であり、煩悩の覆いがないため、心識の認識には煩悩による汚れがなく、清浄な智慧の性質が明らかに顕現する。なす行為はすべて善業と清浄な業であり、悪業を造ることはない。この時の智にはほとんど誤りがなく、あるいは極めて少なく、信頼と依存に値する。この段階になって初めて智と呼ぶことができる。

仏陀が涅槃に入ろうとされた際、後世の衆生に「識に依らず智に依れ」と遺誡された。この智とは通常の智慧の智ではなく、また証果や明心を果たした直後に生じる無生忍の智でもない。それは煩悩の覆いのない無生法忍の智であり、識を転じて智とした後の智であり、道種智の智である。証果や明心を果たした直後は、智慧が凡夫より深まってはいるものの、煩悩の覆いが残っているため智慧はなお浅薄であり、心の汚れも比較的顕著である。時に煩悩によって悪業を造ることもあり、これはもはや智ではない。したがって法に対する認識は慧と呼ぶべきであり、智とは称しえない。結果に違害作用がある限り、すべて不智であり、智とは呼べない。結果がすべて善である行為こそが明智の挙げ方であり、初めて智と呼ぶことができ、依存しうるのである。

凡夫の心識の思惟はすべて識性に属する。煩悩の慣性に依って生じる分別と選択作用はすべて識性に属し、智はない。証果や明心を得ても煩悩を断じていない賢者は、思惟に一定の智慧が伴い、心識の慧の力が増したものを慧と呼ぶが、なお智ではなく、大まかに言えば識性の範疇に属し、完全に依存・依拠することはできない。よって多くの人々は、多少の法を学んだだけで自分が如何に殊勝で超勝しているかと思い込むが、これらはすべて識性の認識範囲に属し、誤った要素が占める比重が依然として甚だ大きい。したがって己の考えを過信すべきではなく、そのような自信はほとんど誤信であり、慢心から引き起こされた結果である。多くの人が自ら疑いないと思っていることも真に疑いがないわけではなく、智慧が不足している時は疑いがあっても内観で見抜けず、自分が事実だと思っていることは往々にして事実ではなく、単なる誤った判断に過ぎない。


——生如法師の開示
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心念によらずに円明に了知できるのは、どの識心でしょうか。

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智慧に依り識に依らないとはどういうことですか

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