楞厳経にこのような一節がある:この会座の中の摩訶迦葉は、久しく意根を滅し、円明に了知して心念によらない。問う:大迦葉が久しく意根を滅したとは、どの識を滅したことを指すのか。如何に滅したと言うのか。
答える:他心通を持つ者は、時と場所を問わず他人の心念を感知することができるが、それは相手が心念を持つ場合に限られる。もし相手が深沈であり心念を持たないか、あるいは禅定にあって随意に念を起こさなければ、相手の心念を感知できず、他心通は役に立たない。この心念とはどの心の念を指すのか。
他心通が了知するのは意識心の心念である。なぜなら意識心の心念には言語文字あるいは音声(音声には心の声も含む)があるため、意識の心行には形相が生じ、了別しやすいからである。一方、意根の心念には言語文字や音声がなく、明らかな行相もないため、了別されにくい。意根の心行を了別するには、身口意の行いを通じて了別し、身根と意識の造作を通じて了別する必要がある。
では大迦葉が久しく意根を滅したとは、何を滅して円明に了知し、心念によらないのか。もちろんこの心念とは意識の心念を指す。大迦葉の円明に了知することは、意識による知ではなく、意根が直接に知ることであり、六塵の内外の境界を知り、直接に六識の知を代替する。したがって大迦葉が滅したのは意識と意識の心念であり、意根を滅したのではない。もし意根を滅したならば、大迦葉の五蘊は存在せず、無余涅槃に入っていたであろう。
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