白雪香は次のような見解を述べた:世の人々の愛には方向性がある。いかに大きな愛にも方向があり、小人物的な愛を拡大したものが大愛である。例えば政治的な偉人の愛は小人物的な愛の拡大版であり、そうでなければ戦争は起こらない。「これが私の祖国であるから侵してはならない」という理由で国家間の戦争が発生し、「これが私の宗教である」という理由で宗教間の殺戮が起こり、「これが私の信仰である」という理由で信仰間の迫害などが生じる。これらは全て大愛によるものである。
真実の慈悲にはいかなる衝突も存在せず、大小の区別もない。全ての問題は真実の慈悲が生じていないことから発生する。人文主義的な愛でさえ、人間同士の間で衝突がなければ良いが、「人間」を基盤としている限り、動物を殺傷し生命を害することは避けられない。「人間」を基盤とする限り、いかに愛を説き動物保護を提唱しても、他者が動物を殺すのを見れば怒りが湧き起こる。これでは真実の愛ではない。
白雪香の言葉は素晴らしい!真に空を体得した者でなければこのような言葉は出ず、真実の体験がなければ作り話もできない。世間の人は愛や情を好み、情愛がなければ生きられないかのようだ。情愛は凡夫の精神的な糧であり、容易に奪われることを許さない。これらは全て「我あり、人あり、衆生あり」という前提から生じる心理的な情動である。ある程度覚った人々は、自己という小さな存在や小さな愛が微々たるものだと感じ、大我や大愛を提唱する。これは昇華したように見えるが、実は全て「我」である。小さな我がなければ大きな我は現れない。
例えば自分が属する団体、国家や地球を大我と見なし、全てをこの大我のために捧げ、その他を顧みない。さらには自己の団体のために他団体を攻撃する。一見無私のように見えるが、実はこれも利己的である。この団体には自己の利益が存在し、利益がなければ団体を懸命に守ろうとはしないだろう。他団体を攻撃する行為は何か?もちろん悪業である。これが大我大愛の表れである。
十二因縁における愛・取・有・生・老死、全ての生死の因はこの愛である。愛によって取が生じ、生死が訪れる。諸仏菩薩は愛を説かず、慈悲喜捨を説く。菩薩の四摂法をもって衆生を摂受し、情動に動じない。情動こそ生死の因である。世俗の説く大愛は全て生死に関わり、空ではない。空の心をもって事を行い、慈悲をもって人を憐れむ時にのみ過失がなく、さもなければ大愛もまた過失となる。執着の性質があれば必然的にそうなる。
例えば医者が患者に対し、誠心誠意治療に当たれば良い。もし情動を投入し、患者やその家族と同じく悲苦を共にすれば、医者の身心は常に患者の影響を受け、やがて自らも病に倒れ、長くすれば病死するだろう。それではどうして再び患者を治療できようか。事があれば事を処理し、愛も情動も用いず、身心を分離させれば身心共に健康である。諸仏菩薩も同様で、もし衆生に愛を注げば、身心世界は衆生と同じになり、どうして衆生を救済できようか。それでは衆生の愛が諸仏菩薩に感染し、諸仏菩薩を凡界へ引き戻すことになり、もはや諸仏菩薩は存在せず、愛ある凡夫俗子となる。
愛の本質は貪りであり、これを貪愛と呼ぶ。いかなる愛も、何を愛するにせよ、欲界の煩悩的情動であり、色界に昇ることはできない。色界・無色界の法でさえ三界の生死の中にある。愛を断つことが修行者の本分であり、これに代えて慈しみを起こせば心量が拡大し、生死の過患がなくなる。
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