衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年10月09日    月曜日     第1開示 合計4030開示

世の人々が説く「大愛」とは一体何なのか

白雪香は次のような見解を述べた。世の中の愛には方向性がある。どんなに大きな愛にも方向性があり、小さな存在の愛を拡大したものが大愛である。例えば、政治的な偉人の愛は小さな存在の愛の拡大版であり、そうでなければ戦争は起こらない。「これは私の祖国だ、侵してはならない」という思いから、国と国との間に戦争が起こる。「これは私の宗教だ」という思いから、宗教間の殺戮が起こる。「これは私の信仰だ」という思いから、信仰間の迫害などが起こる。これらはすべて大愛が原因である。

真の慈悲には、いかなる衝突も存在せず、大小の区別もない。あらゆる問題は、真の慈悲が生じていないために発生する。たとえ人道主義の愛であっても、人間同士には衝突がなくとも、「人間」に基づくものであるため、動物を殺傷し生命を害することは避けられない。「人間」に基づく限り、どれほど愛に満ちていても、動物保護の理念を提唱していても、他者が動物を殺すのを見ると怒りが込み上げる。これでは愛とは言えない。

白雪香の言葉は非常に的を射ている!真に空(くう)を体得してこそ語れることであり、実体験がなければ作り話すこともできない。世間の人は愛や情を好み、情愛がなければ生きていけないかのようである。情愛は凡夫の精神的な糧であり、容易に奪われることを許さない。これらはすべて「我あり、人あり、衆生あり」という前提から生じる心理的な情緒である。ある程度目覚めた人々は、自分自身という小さな自我や小さな愛が取るに足らないものだと感じ、大我や大愛を提唱する。あたかも昇華したかのように見えるが、実はどちらも「我」である。小さな我がなければ、大きな我が現れるはずがない。

例えば、自分が属する団体、国家や地球を含めて、その団体を大我と見なし、この大我のために全てを捧げ、それ以外は一切気にかけない。さらには自らの団体のために他の団体を攻撃することさえある。自分は無私であるかのように見えるが、実はこれも利己的である。なぜなら、この団体には自分自身の利益が存在しており、利益がなければ、おそらくあらゆる手段を講じてその団体を守ろうとはしないだろう。では、他の団体を攻撃するとはどのような行為か?もちろん悪行である。これが大我・大愛の表れである。

十二因縁における愛(渇愛)・取・有・生・老死、あらゆる生死の原因は、まさにこの「愛」である。愛によって取(執着)が生じ、生死が訪れる。諸仏菩薩は愛を説かず、慈悲喜捨を説き、菩薩の四摂法を説く。四摂法をもって衆生を摂受し、情に動じない。情に動じること自体が生死の因である。世俗の人が説く大愛は、すべて生死に関わるものであり、空(くう)ではない。空の心をもって行動し、慈悲をもって人を憐れむことで初めて過ちがなくなる。そうでなければ、大愛もまた過ちとなる。執着の性質があれば必然的にそうなる。

例えば、医師は患者に対して、ただ心を尽くして治療すればよい。もし感情を投入し、患者やその家族と同じように悲嘆にくれるならば、その医師の心身は常に患者の影響を受け、そう長くは経たずに自らも病に倒れ、やがて病死してしまうだろう。そうなれば、どうして再び患者を治療できるだろうか?事に当たっては事を処理するだけで、愛も感情も用いず、心と身体を分離させれば、心身ともに健康でいられる。諸仏菩薩も同様である。もし衆生に対して愛を投入するならば、心身世界は衆生と同じになってしまい、どうして衆生を救済・導くことができようか?そうなれば、衆生の愛が諸仏菩薩に感染し、諸仏菩薩を凡界に引き戻したことになる。そうなればもはや諸仏菩薩は存在せず、愛ある凡夫俗子だけが残る。

愛の本質は貪りであり、貪愛と呼ばれる。どのような愛であれ、何を愛そうとも、それはすべて欲界の煩悩の情緒であり、色界にすら昇ることはない。色界や無色界の法でさえ、三界の生死の中にある。愛を断つことは修行者の本分であり、それに代わって慈しみと憐れみの心を以てすれば、心の量は拡大され、生死にまつわる過ちはなくなる。

——生如法師の開示
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