問:あるグループで仏教の正しい教えを説いた際、正しい知見を持たない自称仏教徒から攻撃され、全身が苦しくなり、毒蛇に噛まれたかのような感覚に襲われました。相手は負のエネルギーに満ちており、一般の非仏教徒よりも劣っているように感じます。このような感覚が生じるのはなぜでしょうか。
答:このような状況では、第一に自らの発言が時機相応でなかったか、言葉遣いが適切でなく方便を欠いていなかったか、慢心から相手を見下していなかったか、自らの信仰心が不足していなかったかなどを反省すべきです。第二に、攻撃や反対を受けることは自然な現象であると理解すべきです。衆生は無明ゆえに認識が異なり、各自が自説に固執し、偏執的な現象さえ生じるのです。第三に、衆生の心理を観察し、衆生を理解し、コミュニケーションの方法と技術を学ぶ必要があります。問題に直面した時、他者の原因を探しても解決には至らず、自らの原因を探求することで自らを修正し、相手に受け入れられるよう努めるべきです。
自らの見解が受け入れられず攻撃を受けたと感じ、前述のような感覚が生じるのは、自らの我執が極めて強く、他人の拒絶や不承認を一切許さず、他人の態度を過度に気にしている証左です。記述された言葉からは、我慢が甚だしく、内心で自らを高く掲げ、無意識に他者を軽視している様子が窺え、それ故に本来的にあってはならない感覚が生じているのです。正見と正理を備えているならば、心を空しくして縁に随い、言葉は控えめで技巧を凝らし、相手の態度や反応に執着せず、他人の評価を気にかけず、あらゆる結果に無執着で、常に謙虚な態度を保つべきです。このようにすれば、自らの心意と磁場が無形のうちに相手を摂受し影響を与え、見解は自然と受け入れられ、少なくとも言葉の衝突は生じません。それ故に、問題が生じた時はまず自らを省みるべきだと申し上げるのです。
対話において、初めから自らを正と位置付け正法を持つと設定すれば、他者を邪な側に置くことになり、相手が正知正見を持たないと見做すことになります。このように正邪を対立させれば、自他・是非が必然的に生じ、誰もが邪なる側になりたくないと考えるからです。自らを正と見做せば他者は邪となり、当然相手はこれを認めず、衝突が生じ矛盾が激化します。人の話し方は往々にして態度と立場を露呈し、相手がこれを感知すれば反感を抱き、感情が高ぶり不適切な言葉が生まれ、矛盾が顕在化するのです。
私が長年説法してきた中で、「私が説くのは正法である」あるいは「私は正法を代表する」といった表現は一度も用いたことがありません。経典を紐解けば明らかな通り、私は常に対立を避けて参りました。たとえ私の説法を受け入れない者がいても、それは私自身に原因があるのではなく、他の要因によるもので、問題は私にはありません。智慧ある者は、他者を自らの対立面に立たせず、敵を作りません。我執の強い者こそ、絶えず敵を増やし、あらゆる人を仮想敵と見做し、結果として敵を天下に満ちさせてしまうのです。敵に囲まれた者が、いったいどれほど遠くまで進めましょうか。物事が円滑に運ぶものでしょうか。
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