衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年10月08日    日曜日     第1開示 合計4029開示

なぜ攻撃されたと感じるのでしょうか

問:あるグループで仏教の正しい道理を話している時、正しい知見を持たないいわゆる仏教徒から攻撃されると、全身が不快に感じられ、まるで毒蛇に噛まれたようで、相手が全身に負のエネルギーを満たしているように感じ、一般的な仏教を学んでいない人よりも劣っていると感じます。なぜこのような感覚が生じるのですか?

 答:このような時は、第一に、自分の発言が時機に適っていなかったかどうか、あるいは言葉遣いが不適切で巧みな手段(方便)を欠いていなかったか、あるいは傲慢な心で相手を見下していなかったか、あるいは自分自身の信受する力が不足していなかったかなどを反省すべきです。第二に、攻撃や反対を受けることは正常な現象であると考慮すべきです。衆生は無明(むみょう)があるため認識がそれぞれ異なり、各自が自説に固執し、偏執的な現象さえ現れるのです。第三に、衆生の心理をよく観察し、衆生を理解し、コミュニケーションの方法や技術などを学ぶべきです。問題に遭遇した時、まず他人の原因を探しても問題は解決できず、自分の原因を探ることで初めて自己を修正し、それによって相手に自分を信受させ、自分の善意を受け入れさせることができるのです。

  もし自分の見解が受け入れられず、相手からの攻撃を受けたと感じ、上記のような様々な感覚が生じたなら、それは自分の我執(がしゅう)が非常に重く、他人の拒絶や不認可を一切許さず、他人の自分に対する態度を過度に気にしていることを示しています。上記の言葉の表現から、我慢(がまん)が比較的深刻で、心の中の「我」が強く、無意識のうちに他人を見下し軽蔑しているため、あってはならない感覚が生じたのです。もし自分に正しい見解(正見)と道理(正理)があれば、心を空しくして縁(えん)に随い(心空随縁)、言葉は控えめで技巧的であり、かつ相手の態度や反応を淡く見て、他人の評価を気にせず、あらゆる結果に全く執着せず、態度は終始謙虚で穏やかであるべきです。そうすれば、自分の心と磁場(オーラ)が無形のうちに相手を摂受(きょうじゅ)し影響を与え、自分の見解は受け入れられやすくなり、少なくとも言葉の衝突は起こらないでしょう。だからこそ、私は問題に遭遇したらまず自分をチェックすべきだと言うのです。

 人との対話において、最初から自分を「正」と位置付け、正法(しょうぼう)を持っていると設定するならば、他人を邪(じゃ)の側に置くことになり、他人には正しい知見(正知正見)がないと見なします。こうして正と邪が対立し、自他の是非が必然的に生じます。なぜなら、誰も邪の側になりたがらないからです。自分が正しいと思えば、それは他人が邪であることを意味します。当然、相手はそれを望まず、衝突が生じます。矛盾は往々にしてこうして激化するのです。人の話し方の口調は、往々にして自分の態度や立場を露呈し、相手がそれを感知すると反感を持ち、感情が生まれ、言葉が不適切になり、矛盾が生じます。

 私はこれまで長年にわたり説法してきましたが、「私の説くものが正法である」とか「私が正法を代表する」といった言葉は一度も使ったことがありません。このような表現は私の教義の中に全く存在しません。本を開いて見ればわかることです。だから私は決して人と対立しません。たとえ私の説く法を受け入れない人がいても、それは私自身のためではなく、私以外の何らかの理由があるのであり、問題は私の側にはないのです。智慧のある人は話したり行動したりする際、人を自分の対立面に置かず、自分で敵を作りません。我執が深刻な人こそが、絶えず敵を作り、さらにはあらゆる人を自分が想定する敵と見なし、そうすることで当然ながら敵は天下に満ちるのです。そして、敵が天下に満ちている人が、どこまで行けるでしょうか?物事は順調に進むでしょうか?

——生如法師の開示
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