答:三昧真火と炁(き)は道家で用いられる名詞概念ですが、私たち仏家にも当てはまります。なぜなら、同じ身体であり、ほぼ同じ方法を用いているからです。それが禅定(じょう)です。身体には同じような効果が現れます。心が定まりさえすれば、身体の中の気脈が妨げられず、自動的に全身を運行して調整し、病を治す働きが生じます。同時に、気脈が下腹部の丹田の部位まで運行すると、道家のいう三昧真火が引き起こされ、火は脂肪を燃焼させるので、身体は痩せていきます。
気が下腹部に集まると、妄念の生起を抑えることができ、心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) になっていきます。精・気・神が充足すると、精が足りれば淫を思わず、気が足りれば食を思わず、神が足りれば眠りを思わず、言葉も念頭も少なくなり、話すことが好きでなく、雑事を考えることも好まず、心は自然に清浄 (viśuddha/pariśuddha) になります。ここから分かるように、淫欲心が重いのは一つには身体の中の精が不足しているためであり、食欲が旺盛なのは身体の中の気が不足しているためであり、眠りが重いのは神が不足しているためです。この三者の充足は禅定の修練によって得られ、心意が集中して気脈が動き出せば、エネルギーは十分になり、身体には多くの変化が現れます。学仏の人は、大乗と小乗のいずれの修行であっても、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になって禅定が引き起こされれば、必ずこの段階を経ることになります。真に修行する人は、身心が必ず転変し、その後にこそ見道ができるのです。もしこれらの現象を経験していなければ、禅定が現れたことがないということであり、見道はできません。
不浄観と白骨観の修習を通じて禅定を引き起こすことができます。これは慧をもって定を引くものであり、定慧等持です。座禅は禅定を引き起こすことができ、また一心に観行 (vipaśyanā-caryā) することも同様に禅定を引き起こすことができ、その間の効果は人によって異なります。不浄観と白骨観について、書物の教えに意図的に従うのではなく、自分で推敲することによって成果を修出せたということは、前世ですでに修習したことがあり、一定の基礎があったことを示しており、今世ふたたび修めば効果が顕著に現れるのです。そして不浄観と白骨観を修めた結果、身体の上では淫を断つことになります。この修法は断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) に対して最も直接的で迅速なものであり、坚持し続ければ、さらに大きな益れも得られるでしょう。
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