儒教文化は仏教の基盤であり、人としての道、君子の行い、身心の抑制、身口意の清浄化、貪瞋痴の調伏を説く。まさにこの儒教文化の素地があったからこそ、仏法は西インドから中国(震旦:しんたん)に伝わり、中国に根を下ろして中華民族に福祉をもたらしたのである。仏教の修行は儒教を基礎としており、思想・品格・道徳的修養においては儒教よりも高く、儒教よりも清浄で高潔であるべきであり、泥の中にあって染まらないことを尚一層実践すべきである。
儒教は君子の道を提唱し、言ったことは必ず実行し、言行一致、表裏一体、公明正大、大丈夫の気概を重んじる。君子は儒教が打ち立てた規範であるならば、仏教の規範は聖賢であり、君子を超越すべきものである。故に君子たる者が必ずしも仏教の聖賢であるわけではないが、仏教の聖賢は必ず儒教の君子である。君子でない者は聖賢でもなく、善知識でもない。もし自らを聖賢、善知識と称する者がいれば、その身口意の行いを君子の徳行と照らし合わせるべきであり、その品行が君子に及ばず、君子との差があれば警戒し、染まって同化されることを防ぎ、心を曇らせてはならない。ある人物が悟りを証しているか、明心見性しているかを検証するには、まずその品格、徳行の修養、心性を検証せねばならない。心性の面が合格でなければ、他の理論などは単なる口先のものであり、実証を伴わない。実証を得た者の心性は必ず変化する。いわゆる「万法唯心造」であり、明らかに染汚した心からは聖賢は生まれない。
仏を学び修行する者一人ひとりも、君子の行いを多く学び、儒教や道教の伝統的な国学を学び、人格と操守において次第に円満となり、人としての品德修養を備え、心性が成熟して完成されてこそ、仏法の修学において努力すれば効果が現れる。理論的な功夫(技術)と心性が同期し同行し、完璧に融合してこそ、はじめて脱胎換骨し、鯉の滝登りを果たして真の聖賢となり、衆生の模範となる資格が生まれ、衆生を解脱の道へと導く資格を得るのである。
多くの人々が長年仏教を学びながら、努力が実を結ばない原因は何か。それは修行が単に技術的な努力や道を究めることだけでなく、より重要なのは心性の鍛錬と陶冶、人格の完成にあるからである。人としての資格すら満たしていなければ、いかに努力しても自らの心の牢獄を突破して聖賢となることはできない。多くの仏教学習者の徳行は世間の普通人にも及ばず、学べば学ぶほど煩悩が重くなり、貪瞋痴が何一つ減らず、世俗的な欲求は多く、名声や利得を苦心して追求している。そうした者たちこそ、安易に自らが開悟し聖者となったと宣伝するのである。一方、徳行が比較的良好な人々は非常に慎重に、細心の注意を払いながら自らを検証し、軽々しく自らにそのような大帽子を被せようとはしない。
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