手に青い苗を把って田んぼに満遍なく挿し、頭を低げれば水中の天が見える。心の地が清浄こそが道であり、退くことが実は前進である。
この四句が現わしているのは、あの特別な、形も相もない道であり、明らかにしているのは如来蔵の働きである。まだ悟っていない者は、心がすべて境界の中に入り込み、その中の意境をあれこれ考え、人を見、境を見、事柄も見て、景色に触れては感情が湧き、感慨無量となる。実は境界をあれこれ考えるのは大きな間違いで、実際に琢磨すべき境界などない。この詩は何の境界も表現しておらず、人もなく境もなく事もなく、すべてはただ一文字:道である。問う:道はどこにあるか?人と境が接するすべての事柄の上にあり、また人と境の上にもあり、至る所に存在する。しかし凡夫は道を見ず、ただ俗なる相だけを見る。金の砂が空に舞い、目に入れば障りとなる。金の砂は目で見るものではない。見ればすべてが砂塵であるが、心で体得すれば、すべてが金である。
ある人が言う:あなたのこの言い方は悪取空ではないか?これは悪取空ではない。悪取空とは、如来蔵というこの道さえ存在を認めず、一切の法をすべて空としてしまい、何もなく、因果すらなく、因も果も戒律もなく、すべての身口意の行いが何の顾忌もないことをいう。この四句が示しているのは、人もなく境もなく事もないことこそが、まさに空ならざるあの道・如来蔵であり、人・境・事に執着することこそ、まさに空に執着することである。凡夫はまだ道を証得していないゆえに、どのような見方も正しくない。人・境・事に執着しているときに、どうして如来蔵を見、如来蔵を証得できようか?
そして空とは、大乗・小乗の教えの指向するところであり、色・受・想・行・識の五蘊の人は空であり、内外の六塵の境界は空であり、人もなく境もなければ、事もない。これらの虚妄の法が空であることによってこそ、あの空ならざる如来蔵を見ることができるのである。空の法に執着し、慧眼を覆い隠してしまえば、どうして空ならざる如来蔵を見ることができようか?
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