衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月30日    木曜日     第1開示 合計3906開示

漸修と頓悟とは何か

頓悟の前には、漸修の過程が必要です。この漸修は悟後の漸修とは異なり、両者の性質はまったく違います。頓悟前の漸修とは、三十七道品と菩薩の六度を修習し、戒定慧を修習し、暖・頂・忍・世第一という四種の善根を具足してこそ、大小乗の仏法を頓悟できるのです。この問題を譬喩で喻えれば、法理はいっそう明らかになります。たとえば千年の老木を切り倒すとき、幹は太いので、幹を倒すには道具を使って少しずつ切り進めなければなりません。この過程が漸修の過程に相当し、最後にとうとう老木を一気に倒すことが、頓悟に相当します。だから漸修がなければ頓悟はありません。

木を倒したあとの加工、すなわち樹皮を剥ぎ、板材に裁き、磨き上げ、研磨し、ワックスをかけ、色を塗るなどといったことは、悟後の漸修に類似しています。最後に板材を組み合わせて心を楽しませる家具や工芸品とすることが、最終的な頓悟成仏に相当します。老木を切り倒すのは非常に骨の折れる辛い作業で、忍耐力・持久力・体力が必要であり、道具も鋭利でなければならず、技術も確かでなければなりません。これは見道に必要な資糧に相当し、資糧が不足していれば、見道はできません。中には修行を続けるうちに退転して脱落し、足止めしてしまう人もいれば、思い切って引き返してしまう人もいます。修行の道は、先に進むほど人が少なくなります。初発心する者は一万いても、坚持し続ける者はほとんどおらず、成道する者は一人いるかどうかもわかりません。それゆえ聖人は鳳の毛・麒麟の角のように、きわめて稀で得難いものであり、出会ったならば大切にすべきです。

悟前の漸修と悟後の漸修を混同して区別せず、悟前には漸修はなく、修は悟後のことだと考える人もいます。しかし、漸修のない頓悟は、解悟にすら数えられず、まったくの情思意解、憶想憶測であり、少しの功徳の受用もありません。極めて大きな善根を持つ諸地の菩薩は別として、前世の基礎が深いために直接頓悟できる者は別です。悟前の漸修こそ、凡夫の心性を聖心へと転変させる過程であり、脱胎換骨の過程であり、鯉が龍門を躍る前の変態の過程なのです。この過程がなければ、どうして変態できましょうか。だから、ある人が真の悟りを開いたかどうかを観察するには、その心性を観察し、その骨を観察すべきであって、表面的な華やかさや、弁が立つこと、大言壮語することを見てはなりません。本質が最も重要なのです。

漸修とは、自分の身心を徐々に聖賢の身心に近づけ、似せていくことであり、聖賢の基準に達してこそ頓悟見道できるのです。これが修心の過程であり、心が変わらず、聖賢の心行でなければ、聖賢にはなれません。だから漸修はきわめて重要であり、修所成慧を生起させる鍵となる段階です。それ以前は聞所成慧と思所成慧だけで、きわめて浅く、生死の業障に抗うことはできません。修所成慧が具足して初めて、証道所成慧が生じ、そこからようやく三悪道の業を免れ、煩悩を断除し、輪廻の苦から脱することができるのです。

——生如法師の開示
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