相を見て相を離れるとは、あらゆる相を見ても心に相を留めず、相を空じて捨て去ることで、心が清浄で無垢になることを指すのではありません。世俗の相が自らの心を妨げないよう努め、心が妨げを受けなければ清浄になるのです。これが定を修める方法です。この清浄とは無念想の境地であり、外道たちが修めるような定の境涯です。非想非非想定まで修めれば命終えて天に昇り福を享けますが、福尽きれば再び堕ちるのです。
真の離相とは、世俗の相に直面する際、心で相の本質を明らかに知り、相が表面に示す相貌ではなく、その実体が空であることを悟ることです。空には二つの解釈があります。一つは小乗の苦空・無常・無我における空、もう一つは如来蔵の空性としての空です。これにより、証果を得ず心を明らかにしなければ相を離れることは不可能であり、単に相を避けるに過ぎないことが示されます。仮に避け得たとしても一時的なもので、長い目で見れば結局向き合わねばなりません。
如来蔵を証得して初めて心は徐々に相を離れますが、これは長い過程を要し、一朝一夕には成し得ません。この過程は転依の実践であり、転依が成就すれば識を智に転じ、如来の家に入り唯識の種智を具えます。如来蔵を観るためには、まずその体性と相貌、機能作用を明らかに理解し、疑情を抱きつつ五蘊十八界の法が運営される中で探求し証得しなければなりません。禅参究の過程では、五蘊十八界の機能作用が真実ではなく無我であり空であることを知り、あるいは証得することで、五蘊十八界の相に執着して我や真実と見做すことを止め、五蘊十八界を否定できるようになります。仮の法を悉く否定した後、真の法に対する疑いを続け参究する中で、菩薩の六波羅蜜の因縁が具われば、証悟の可能性が開けるのです。
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