衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年03月23日    水曜日     第1 回の開示 合計3595回の開示

いかにして見相を離相するか

相を見て相を離れるとは、あらゆる相を見ても心に相を留めず、相を空じて捨て去ることで心が清浄になるのではない。世俗の相が自心を妨げることを極力避け、心が妨げを受けなければ清浄となる。これが定を修める方法である。この清浄は無念想であり、定境である。外道たちはこのような定を修め、非想非非想定に至るまで修行し、命終すれば天に昇って福を享け、福が尽きれば再び堕ちる。

真の離相とは、世俗の相に直面する際、心が明らかに相の本質を知り、相が我々に示す表面的な相貌ではなく、その実体が空であることを悟ることである。空とは、小乗における苦・空・無常・無我の空と、如来蔵の空性の空の二つがある。これにより、証果せず心を明らかにしなければ相を離れることはできず、単に相を避けるに過ぎないことが示される。仮に避け得たとしても一時的なものであり、長期的に見れば根本的には避けられず、結局は向き合わねばならない。

如来蔵を証得して初めて心中で徐々に相を離れることが可能となる。これは長い過程であり、一蹴して成し得るものではない。この過程は転依の過程であり、転依が成就すれば識を転じて智と成し、如来の家に入り唯識の種智を具える。如来蔵を見るためには、まずその体性相貌と機能作用を明らかにし、疑情を抱きつつ五蘊十八界の法の運行の中で探求し証得せねばならない。参禅の過程では、五蘊十八界の機能作用が真実ではなく我ならず空であることを知り証得することで、五蘊十八界の相を我や真実と執着せず、五蘊十八界を否定できる。仮の法を全て否定した後、真の法を疑い参究を重ね、菩薩の六波羅蜜の因縁が具われば、証悟の可能性が生じる。

——生如法師の開示
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