問:ある知見を聞き、一つの法、例えば五蘊は虚妄であり、無常で空無我であると学び、心が実際に生活の中で変化した場合、仕事や生活の大きな方向性の調整であれ、以前に貪愛していたものに対する執着が薄れ、感覚が淡泊になった場合、これは意根の転換と言えるでしょうか。
答:これは三十七道品の修行段階における変化です。修行が比較的効果を発揮し、一つ受熏すると、心が転じ始め、八正道に沿って、いくつかの粗重な貪りの煩悩を降伏させた状態です。身心世界が変化するとは、即ち意根が受熏によって転じたことを意味します。つまり修行のどの段階においても、意根が受熏すれば修行は効果を現します。三十七道品も意根に至るまで修めなければ、それは偽りの修行であり、まだ道に乗っていないことになります。ただしこの種の身心の変化は脱胎換骨するほどの転換には至らず、我見を断つに足るものではありません。そのため我見を断ったと自称する多くの者が、断我見後も身心の各方面で顕著な改善や変化が見られず、骨格が変わらない限り、凡夫の胎を聖人の胎に換えることはできないのです。
証果の前には、仏法は必ず意根に熏習されぬばなりません。意根が善法の熏習を受ければ変化が生じ、身心に変容が現れます。証果の瞬間こそそれが顕著に現れ、これを三昧力と呼びます。仏法を学ぶ過程で意根に熏習が及ばず、ただ意識が知識を吸収し理解するだけなら、意根は従来通りで変わることなく、身心世界の転換も起こりません。そうなれば断我見も証果も遥か遠いものとなります。
証果前に意根を熏習させても一定の水準に達しなければ、断我見も証果もできません。故に身心の転換、身口意行の変化、断我見と明心見性は全て、意根を相当程度にまで染め上げる必要があります。意根が僅かしか変化しないのでは不十分です。脱胎換骨には意根を徹底的に転換させ、意根の煩悩染汚心を消除し、欲界五品の思惑煩悩を断じなければなりません。こうして業種が第八識に宿り、後世において人天善道に往生し三悪道に入らぬことが保証されるのです。なお意識で証果するという頑固な態度に固執し、意根による証果の観念に抵抗し続ける者もいますが、そのような強情さは救い難いと言わざるを得ません。
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