衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年02月16日    木曜日     第5 回の開示 合計3865回の開示

諸仏菩薩はなぜ悪の薫習を受けないのでしょうか

もし衆生が世の中で暮らす中で、悪縁に遭遇すればまだ染まることがあり、それによって煩悩が現れるのは、衆生の意根が煩悩と相応しており、まだ煩悩を断じていないため、縁に遇えば染まり、縁に遇えば悪業を現すことを示しています。諸仏は三大阿僧祇劫の修行を経て、とっくに貪・瞋・癡・慢・疑・悪見などの一切の煩悩染汚、および一切の煩悩習気を断じ尽くし、余習もなくなり、五濁悪世に来て諸々の煩悩衆生と接触しても、決して衆生の煩悩によるわずかな染まりや汚れを受けることなく、心は永遠に清浄で汚れのない状態です。仏は初地の時に既に煩悩を断除し、心に染汚がなくなっていますが、その時点ではまだ煩悩習気が断じ尽くされていませんでした。

諸仏が初地以前から断除し始めた煩悩は、第六識と第七識の両方にわたる煩悩です。第七識が煩悩を断じて初めて識が智に転じ、平等性智を具え、一切の法を平等無二と観じ、自他の区別がなくなるため、私心がなくなり、人や物事に対して平等に接します。第七識である意根が煩悩を断じたため、後世どこに生まれ変わっても意根に煩悩がなく、染まることがありません。ただし煩悩習気が断じられていない時は、習気が時折現行するのは避け難く、意識も環境に染まることがあります。意識が染まって多少の煩悩を現しても、速やかに消滅し、持続せず固着することもなく、意根に影響を及ぼすこともありません。

意根が染まらず、また本来煩悩を有していないため、意識の煩悩は断じやすいのです。そうでなければ意識は意根に左右され、煩悩は断じ難く、仮に断じても再び生起します。八地以上の菩薩は意識が再び染まることがなく、煩悩習気が現行せず、諸仏の意識はさらに微塵の染まりも受けず、煩悩も習気も現れません。色を見ても貪らず、財を見ても愛さず、権勢や地位を求めず、瞋らず怒らず、煩わず焦らず、心は柔軟で調和がとれ、寂静の極みに達しています。一方、凡夫衆生の第六・第七識は一切の煩悩を具えており、縁に遇えば染まり、常に環境に順応し、環境に対する抵抗力が乏しく、色を見れば愛し、財を見れば貪り、権勢を好み、名利を求め、逆縁が現前すれば瞋怒が常に心に付き従い、私心・我執が極めて強いのです。

これによって、凡夫衆生の意根は貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の一切の煩悩を具え、意識は意根に従い、煩悩も常に現前し、染縁に遇えば意識は容易に染まります。意根が三世を連ね、また一切の煩悩を具えているため、生死輪廻が絶えず、中有身および後世に生まれる時には既に一切の煩悩を具え、前世と変わらず、生生世世にわたって煩悩が止むことがありません。ただし我見・我執・我慢・我痴の煩悩は常に意根に付き従って絶え間なく運行し、一時も停止しませんが、その他の煩悩は常に意根に付随して運行するのではなく、縁に遇って初めて現行し悪業を造作し、業種を残して後世の生死輪廻を継続させるのです。

——生如法師の開示
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