衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年02月09日    木曜日     第3 回の開示 合計3853回の開示

夢中で夢を知ることは意識の証自証分ですか、それとも自証分ですか

証自証分は識心自身及び自心所の法を反照するものであり、自身の意味は意識が意識を了別し、意根が意根を了別し、五識が五識を了別することを指し、相互に了別する意味ではない。自証分は識心が相分の境界を了別するものであり、この相分は一切法を含む。当然第八識及びその心所法も含まれるが、それは了別する智慧の如何による。夢とは夢境を指し相分であり、知は識心の見分である。識心が塵境を了別するのは見分が相分を了別する自証分であり、証自証分ではない。見分が自己を見るのが証自証分である。見分と相分が結合して初めて自証分と証自証分が生じる。証自証分は実は自証分の一種であるが、相分が識心自身に転じ、自己及び心所法が相分となる点が異なる。

夢境の相分を了別する見分は第六・七識の見分であり、六識は独頭意識である。一切の境界を見る主たる働きは第六・七識の見分によるが、衆生が感じ観察できるのは意識の見分のみで、第七識の見分を体察することはできない。今は意識の見分について述べよう。睡眠中の夢を見る際、なぜ独頭意識は夢中であることを知らないのか。それは夢中の意識が昏沈して清明でなく、睡眠自体が蓋障となり、意識の智慧認知を遮蔽しているためである。

睡眠蓋を除き遮障がなくなれば意識は清明となり初禅定を得る。あるいは禅定が深まるにつれ睡眠は次第に減少し浅薄となり、夢中の意識は益々清明となる。そのため夢中であることを明確に知り、悪業を造らず善業をなすことさえ可能となる。故に夢中に夢を知ることは第六・七識に定慧が備わり睡眠蓋障が軽微であることを示し、夢中に夢を知らぬことは第六・七識の識性が睡眠に覆われ心が清明でない状態である。

夢中の知見は独頭意識の見分であり、意根が意識の見分に及ぼす影響は甚大であるが、ここでは具体的な影響には触れない。夢中の独頭意識が了別する境界は限定的で、五識の補助を受ける五俱意識ほどの全面性と明瞭さを有しない。夢中に夢を知らぬのは独頭意識の自証分機能が不十分で智慧力が弱く、これらは色身と意根に関係する。意識の了別機能の強弱は意識自身の定慧のみならず、意根の定慧や色身にも関わり、色身と意根を離れて意識の機能を論ずることはできない。

なぜ色身と関係するのか。覚醒時の意識の了知が色身の影響を受けることは周知の理である。睡眠中は意根が境界を了別せんとせず、六識は全て生起しない。夢中では独頭意識が強制的に生起して夢境を了別するが、神経系統の活動が緩慢なため意識の思惟は抑制され、認知智慧が低く対境が夢境であると弁別できず、夢境を現実と錯覚する。これは酩酊時の状況と同様、神経系統の不活発さによるものである。

夢中に意識が証自証分を有する場合、それは意識が自己及び心所法を了知する反照力を意味し、意識が塵境を了知するのに要する定慧よりも更に高度なものを必要とする。夢中に意識の自証分機能が不十分であれば、証自証分の機能は殆ど存在せず、自身を証知する反照力は生じない。ただし禅定に優れ覚性が強く四禅八定を具える者に限り、夢中の反照力は向上するが、禅定が深い者は殆ど夢を見ない。

意識の諸機能の強弱は、意識自身の定慧の問題のみならず、更に意根と深く関わる。古今を通じこの問題を認識観察し得た者は殆どいないが、意識の機能作用は確かに意根から切り離せず、両者は相補的関係にある。意根を離れて意識を論ずることは本末を転倒させることに等しい。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

夢は意根の思念からなるものです

次の記事 次の記事

如来蔵の五大種子の機能と作用

ページのトップへ戻る