衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2023年02月05日    日曜日     第2開示 合計3846開示

心を壁となすことにより、入道することができます

問:ある夜、私は眠りの中で禅定に入り、心は明るく澄み渡り、周囲の人や物事がはっきりと分かっていましたが、それらの人や事柄が自分とは何の関わりもなく、自分に影響を与えないようにも感じました。自分はまるで真空の中にいるかのようで、心には一点の雑念もなく、ただ法義を思惟する一つの念い(具体的な法義は覚えていません)だけがあり、それはあたかも一輪の太陽がぽつんと空に照らしているかのようで、一片の雲もない感覚でした。同時に全身が比類ない軽安と快適さを感じ、ついに禅定の中ではこんなにも心地よいものかと知りました!目覚めた後もその快適さを感じ続け、もしこのような禅定があるなら、本当に世間の享楽を貪ることはなくなるでしょう。あの感覚は非常に軽安自在で、世間の五欲の楽しみとは比べものになりません。お師匠様、どうして夢の中でこのような現実では経験したことのない境界が現れるのでしょうか?

答:この種の夢は禅定の中で参禅している状態であり、定もあり慧もあり、止観が双運しています。あなたは過去世でこの種の禅定を修めており、それは未到地定です。意根が前世で経験して記憶があり、今は心が憧れ、再びこの禅定の境界を経験したいと願っています。しかし現世の生活は比較的忙しく、修定の因縁も具わっていません。そこで意根は仕方なく夢を見て、夢の中で禅定と参禅の楽しみを享受しているのです。どうやら意根もなかなか哀れで無念ですね。現代社会はあまりに繁雑で乱れており、なんと繁雑な生活を断ち切って一心に修道に専念することができないのです。

夢の中では、意識は清明な無念の状態にあり、明らかで一点の念いもありません。おそらく未到地定の中にいるのでしょうが、意根は働き始めて参究法義の状態にあり、仏法を思量しています。このように仏法を思量してこそ根本的な問題を解決でき、道を証することができるのです。参禅参究とはまさにこの状態であり、心には一点の雑念もなく、外境は心に入らず、心は銅牆鉄壁のごとく如如不動です。達磨大師が「心を壁の如くにすれば道に入ることができる」と言われたのは、まさにこの意味です。禅定と思惟がこの程度に達していなければ、道を証することを望んではなりません。

意根のこのような思量参究の状態は、極めて静かな環境条件のもとでのみ生じ、連続して持続し、深く細やかで極めて深細な法理を参究することができます。ですから真の修行者は一切の外縁を断ち切り、絶対的な孤独と寂寞に身を置きます。孤無等侶(仲間もなくただ独り)、修道とは本来孤家寡人(ただ独りの者)がなす大事業であり、騒がしい中で仲間と一緒にいて成就できるものではありません。寂寞に耐えられない者は正しい修行の道を歩むことはできません。禅定は煩悩を降伏させ断除することができ、軽安・喜悦・快楽を得ることができます。修道以上に人を楽しませるものはありません。ですから禅定を得た者は誰も世間法を好まず、心は世間に執着せず、財・色・名・食・睡や名聞利養を求めず、権勢や地位を喜びません。世間法に貪ることは実に不明智な行為です。

ある人が「ほんの十数分間でも雑念なく法義を思惟すれば、果を証し心を明らかにすることができる」と言いますが、このような言い方は全くでたらめです。これほど短い時間で仏法を思惟しても、深く細やかな思惟は到底不可能であり、参禅の定慧等持の状態に修めることもできません。あたかも大きなやかんの湯を沸かすのに一時間かかるのに、五分や十分で火を止め、翌日また続けて沸かすようなものです。このように一年、十年と続けても、やかんの湯を沸騰させることはできません。このように仏法を児戯にし、弄ぶことの果報は非常に不善です。もし仏法がこんなに容易に修め証せるものなら、どうしてあれほど多くの三悪道の衆生が存在するでしょうか?世の人はみな抜け目なく立ち回ることを好みますが、抜け目なく立ち回った結果は自分自身を害することになります。一分の耕耘に一分の収穫があるのです。何かを成し遂げたいなら、身心を放捨し、骨身を惜しまず努力しなければなりません。

——生如法師の開示
前へ前へ

いかにして理に契入するか

次へ 次へ

意根は常に審査し思量するのに、なぜ睡眠が必要なのか

ページトップへ戻る