問:ある夜、私は眠りの中で禅定に入り、心は明るく澄み渡り、周囲の人々や物事がはっきりと認識できましたが、それらが自分とは何の関わりもなく、自分に影響を与えないように感じました。自分は真空の中にいるようで、心中に一点の雑念もなく、ただ法義を思惟する一つの念い(具体的な法義は記憶にありません)が、まるでひとつの太陽がぽつんと天上を照らし、一片の黒雲もないような感覚でした。同時に全身に比類ない軽安と快適さを感じ、禅定の中がこれほどまでに心地よいものだと初めて知りました。目覚めた後もその快適さを感じ続け、もしこのような禅定があるなら、本当に世間の享楽を貪ることはなくなるでしょう。あの感覚は非常に軽安自在で、世間の五欲の楽しみとは比べものになりません。師匠にお尋ねします:なぜ現実では経験したことのないこのような境界が夢の中で現れるのでしょうか?
答:この夢は禅定の中で参禅する状態であり、定も慧も備わり、止観双運が成り立っています。あなたは過去世でこのような禅定を修めており、それは未到地定です。意根が前世で経験した記憶があり、現在も心がそれを慕い、再びこの禅定境界を体験したいと願っています。しかし現世の生活は忙しく、禅定を修める因縁が整わないため、意根はやむなく夢の中で禅定と参禅の喜びを享受しているのです。どうやら意根もまた哀れで無念なもので、現代社会はあまりに煩雑で、煩雑な生活を断ち切って一心に修道に励むことができないようです。
夢の中では、意識が清明な無念の状態にあり、明らかに覚醒していながらも念いがなく、未到地定の中にあるべきです。しかし意根は法義を参究する状態で作用し、仏法を思量しています。このように仏法を思惟してこそ根本問題を解決し、悟りを証得できるのです。参禅参究とはまさにこの状態を指し、心中に一点の雑念もなく、外境が心に入らず、心が銅牆鉄壁のごとく如如不動です。達磨大師が「心が壁の如くあれば道に入る」と説いたのはこの意であり、禅定と思惟がこの程度に達していなければ、悟りを開くことを望むべからず。
意根のこのような思量参究の状態は、極めて静かな環境条件のもとでのみ生起し、継続することができます。そうして初めて深細極まりない法理を参究できるのです。真の修行者は一切の外縁を断ち切り、絶対的な孤独と寂寥に耐えます。修道とは本来、孤家寡人が成す大事業であり、騒がしい中で仲間と共に成就できるものではありません。寂寥に耐えられない者は正修の道を歩むことはできません。禅定は煩悩を降伏させ断除し、軽安・喜悦・快楽を得られます。修道より人を喜ばせるものはなく、禅定を得た者は皆世間法を好まず、心は世間に執着せず、財色名食睡や名利供養を求めず、権勢地位を喜びません。世間法に貪ることは実に不明智な行為です。
ある者が「十数分間雑念なく法義を思惟すれば証果明心できる」と説くのは全くの妄言です。これほど短時間の仏法思惟では深細な思惟など到底不可能で、参禅の定慧等持状態に至ることもできません。例えるなら大きな鍋の湯を沸かすのに一時間必要とする時、五分十分で火を止め、翌日また焚き始めることを繰り返せば、一年十年経っても湯は沸騰しません。このように仏法を児戯にし弄ぶ果報は甚だ不善です。仏法がもしそう容易に修証できるなら、どうしてこれほど多くの三悪道衆生が存在するでしょうか。世の人は皆便宜を好みますが、その結果は自らを害するのみです。一分の耕耘に一分の収穫あり、何かを成し遂げるには身心を捨て、真摯に努力する必要があります。
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