衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2023年01月23日    月曜日     第2開示 合計3833開示

意根における恒審思量の「恒」の意味

意根もまた生滅する法であるならば、その「恒に審らかに思量する」における「恒」をどのように理解すべきか。「恒」には二つの意味がある。一つは不生不滅で永遠に存続し滅びないこと。もう一つは時間的に非常に長く久遠であり、相当な長期間にわたって変化せず、ずっとその状態を保つことを指す。前者は第八識の恒であり、絶対的で比類なく、不生不滅である。後者は意根の恒であり、相対的なもので、意根が滅びない状態において永遠に思量を変えずに保持することを指す。

意根の恒は成仏後も滅びることはないため、意根が存在する限り意根の思量性は存続する。しかし意根を滅ぼさないことは、意根が滅びえないことを意味しない。阿羅漢や辟支仏は意根を滅尽させて無余涅槃に入ることができ、七地以上の菩薩および諸仏も意根を滅尽させることが可能でありながら、意図的に滅ぼさないのである。意根は第八識が識の種子を送り出すことによって生じるものであり、第八識によって初めて出生し運行する。不生不滅の本来の法ではなく、一旦意根が三界の世俗法を執取しなくなると、第八識は意根の識種子を送らなくなり、意根は滅する。したがって意根の「恒に審らかに思量する」という恒は、あくまで六識に対する相対的な表現であり、第八識の恒とは比べものにならない。

——生如法師の開示
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