衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年01月24日    火曜日     第1 回の開示 合計3834回の開示

離念霊知と意根との関係

霊とは敏捷で霊動的なものであり、離念とは一時的に思考の念を離れた状態を指します。このような知覚には意識的なものも意根的なものも含まれますが、意識が念を離れることは比較的容易であるのに対し、意根が念を離れることは相対的に困難ではあるものの、不可能ではありません。なぜ意識が念を離れることができるのでしょうか。第一に、意根が欲望や考えを持たず、塵境に縁起せず、粗大な思考の念を持たないこと。第二に、意識自体が境界を弁別する欲望を失い、心配事も存在しないため、意識を動員して思考や念想、造作に駆り立てることがないからです。しかし意根の極めて微細な思考の念は、意識の参与なくして身口意の行いを現出させるため、意識はこれを発見し参与する力を有しません。

この時、意根はやや清浄な状態、すなわち禅定の状態、無欲無求の状態にあります。したがって意識が離念の状態にある時は、必ず意根が清浄であり、かつ禅定の中にあると言えます。禅定の深浅や持続時間に関わらず、実はこの時も微細な念は存在しており、念がなければどうして知が存在し得ましょうか。ただ境界に対する極めて熟達した状態においては、努力して分別することなく知ることが可能となり、この時の思想活動は極めて微弱であるため、離念霊知と称されるのです。ただし「離念霊知」という語は仏典に由来するものではなく、経典に具体的な記述はなく、後世の人々が自らの解釈に基づいて提唱した概念であり、厳密な正確性を欠きます。これらを観察し弁別するには、極めて深遠な唯識の修養と観察力が要求されるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意根における恒審思量の「恒」の意味

次の記事 次の記事

人体の筋肉活動は意識によるものか、意根によるものか

ページのトップへ戻る