衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年01月16日    月曜日     第4開示 合計3824開示

意根と識慧の区別

問:いわゆる記憶とは、意根の参与のもとで、前六識が経験した内容を保存しておき、後に必要に応じて意識が主導して想起することです。一方、理解とは、意識の智慧の導きのもとで意根の思考を引き起こし、それによって意根が物事の内在的な関連性や道理を把握することです。したがって、関連する問題に遭遇した際には、想起する必要がなく、意根が直接に解答と処理を与えます。ゆえに、意根に智慧がある場合は問題処理が簡潔かつ迅速ですが、意根に智慧がない場合は記憶を検索せざるを得ず、結果として問題処理に時間がかかり非効率的となります。以上の理解は正しいでしょうか?

答:以上の理解はおおむね正しいです。想起は意識が想起しますが、主導し決定するのは意根です。理解は意識を主体とする解釈であり、多かれ少なかれ意根の解釈も関与します。意根に智慧がない場合、意識による想起を経て、比較・対照・衡量を行った後、初めて正しいか誤ったかの決定を下します。智慧が浅ければ浅いほど、比較衡量に時間がかかり、ますます優柔不断になり、自信がなくなります。あれこれ考えずに素早く決断する、意識による思惟・分析・対比・較量を用いない選択は、意根による直接の決断であり、慧ある場合も慧なき場合もあります。表情一つ変えず、心を動かすことなく、あれこれ考えを巡らせることなく、黙々と自動的に物事を解決するのは、すべて意根の智慧です。処世に長けた人は、意根に智慧があり経験豊富で、物事を円融無碍に処理し、他人に非難の余地を与えません。

意根に智慧のない学生の学習は、一般的に意識による丸暗記に頼っており、自由に発揮することができず、知識以外の問題に遭遇するとお手上げ状態になります。一方、意根に智慧のある学生は、決して記憶しようとせず、問題を理解した後で自由に発揮します。したがって、学校の試験で高得点を取る学生が必ずしも真に智慧のある学生とは限らず、試験問題が知識型の内容か発揮型の内容か、知識を試すのか智慧を試すのかによって異なります。

——生如法師の開示
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瑜伽師地論 第三十四巻(九十一)

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