衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年01月13日    金曜日     第3開示 合計3817開示

意識の知を以て知と為すは無明であります

各識の証自証分とはどういう意味ですか。各識自証の相分について、その内容をご存知でしょうか。例えば第八識には見分があり、これは能見性です。第八識の相分は第八識が見る相であり、例えば種子がこれに当たります。第八識の自証分とは、第八識自らが相分である種子を見て、それを知り、了別したことを指します。第八識の証自証分とは、第八識が自らの自証分を証明し、証得し、自らが相分である種子を了別したことを知り、自らが相分種子に対する了別を完了したことを認識することを意味します。第八識自らが何をしたか、それ自体は明らかですが、第六識と第七識には分かりません。深い道種智がない限りは。

私たちは第八識が相分種子を了別したかどうかを明確に認識できるでしょうか。私たちには分かりません。第八識は意識の知覚を代行せず、意識が知らないからといって、他の識が知らないわけではありません。意識の不知をもって他の識の知を代替することはできません。第八識を甲、意識を乙と表すと、甲が知る法を乙は必ずしも知らず、乙が知らないからといって甲も知らないわけではありません。甲の証自証分は乙の証自証分を代表せず、乙が甲の証得した相分を認識していないからといって、甲が証得していないわけでも、甲が知らないわけでもありません。また、多くの意根の知は、意識すら明確に認識していません。認識していない以上、意根も知らないなどと言うべきではありません。

衆生の知の大半は意識の知を基準としており、意識が知らないことは「私には分からない」と言い、ある事柄は発生していない、存在しないと断言します。実際には第七識はその事柄が発生したことを知っており、事柄を認識しています。しかし第七識には言語文字の機能がなく、表現できず、意識に知らせることができません。すると意識は、自分が知らないことは存在せず、他の識も同様に知らないと感じてしまいます。このような断定は極めて独断的で、道理にかなっていません。

凡夫衆生の意識はどれほど独断的でしょうか。意識自らは意根を証得できず、意根を観察できないため、意根の自証分や証自証分の存在を認めようとしません。意根は自己に対する内省性を持ち、内省能力があり、自らの了別を内省できますが、意識はこれを知らず、観察できません。それにもかかわらず「意根には内省力がない」「証自証分がない」「ある種の自証分もない」と主張します。意識がこのように考える時、まさに意識自身の愚痴・無明・暗鈍さ、知見の少なさ・浅さ、数多くの誤解、そして自覚の欠如を露呈しています。仏は「慎んで汝の意を信ずるなかれ、汝の意は信ずべからず」と説かれました。なぜなら無明が深重だからです。

——生如法師の開示
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