意根と意識はともに識であり、思心所法を有し、思考・思惟・思量を行うことができます。しかし、大多数の人々は意根の思を観察できないため、意根の思と意識の思に差異があると考え、意識の思を「思惟」、意根の思を「思量」と呼び、思惟は思量ではなく、思量は思惟ではないと認識しています。もし意根が思惟・思考すると述べれば、それは誤りで意識の働きであると言い、意根の心理活動に言及すれば、多くの人は「それは意識の心理活動だ」と否定します。このように意根の心理活動を観察できずに唯識を学びながら、内心で強固な執着を抱くことは、甚だ問題であります。
なぜ多くの人が意根の思が深遠で隠微であり観察困難だと説くのでしょうか。その原因は、衆生が意識の知を以て知とするためです。意識が知るものを衆生は知り、意識が知らぬものは知りません。もし意識に智慧が不足し、意根の心理活動や意根の知を理解できなければ、衆生は意根の働きを深遠・隠微・微妙と感じるのです。実際には意識の無知を責めるべきであり、意識に智慧が具わり障礙がなくなれば、意根の心理活動を眼前に観察できるようになり、意根を深奥難解とも隠微不可知とも感じず、意根の心所法を誤解することもなくなります。
もし衆生がすべて意根の知を以て知とするならば、どのような状況になるでしょうか。意根の知らぬものは衆生も知らず、たとえ意識が多くの法を知ろうとも、意根がそれを知らなければ衆生は知ることができません。この場合、意識が学んだ理論は無用となり、意根が第八識を知らなければ悟りを開くことはさらに困難になります。この時、衆生は「意識の心理活動は深細で不可知、第八識はさらに幽玄微妙」と説くでしょう。
実際、諸法が隠微か顕白かは識の智慧によるもので、法自体の性質によるものではありません。智慧ある時は全ての法が明らかで理解容易ですが、智慧なき時は最も顕白な法さえ深遠に感じます。第六・七識が転識得智すれば、意識は意根と第八識の心行を眼前に観察でき、困難を覚えません。仏陀は一切法を軽易に観察し、むしろ観察せずして一切を了然とされます。
もし衆生が意根の知を以て知とすれば、神通力を得て互いの秘密がなくなり、前世後生を了然とするでしょう。これにより因果を知り、悪報を避けるため悪業を減らすかもしれません。しかし我執の強い者は、悪業の苦果を知りながらも改めず、刑務所に繰り返し入る者が如く、悔い改めません。意根は意識の導きがなければ単純幼稚で情執・我性が強まり、意識による制御が困難となるため、悪業を造る確率が増し、我見を断つことは一層困難になります。
もし衆生がすべて第八識の知を以て知とするならば、第八識は世間法を知らず、人我の区別なく、六塵境界を識別しないため、衆生は生存できず六根が閉じて涅槃の状態に入ります。この状態を「菩薩の衆生救済が不可能」と説く者もいますが、もはや涅槃に入らぬ衆生は存在せず、救済を必要としません。この場合、仏法を学ぶ必要もなく、仏と衆生の区別も消滅します。
もし衆生が五識の知を以て知とするならば、生存不可能となります。五識は粗い五塵のみを弁別し、微細な五塵や心法・意識・意根・第八識を知りません。五塵の粗相さえ意識との共同作用で弁別しますが、細相・法塵・心法を知らなければ生存は不可能です。要するに、一切法を知るには、どの識を主としようとも大智慧を具え転識得智し、智識を以て初めて一切法を了知できるのです。
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