衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年01月11日    水曜日     第3開示 合計3814開示

意根と意識の思と知

意根も意識も共に識であり、思心所法を有し、思考・思惟・思量が可能である。しかし、大多数の者が意根の思を観察できないため、意根の思と意識の思には差異があると考え、意識の思を「思惟」と呼び、意根の思を「思量」と呼んで、思惟は思量ではなく、思量は思惟ではないと見做す。もし意根が思惟・思考すると述べれば、それは誤りであり、それは意識の思惟・思考であると言う。意根の心理活動に言及すれば、多くの者は否定し、それは意識の心理活動であると言う。したがって、意根の心理活動を観察できずに唯識を学ぼうとし、内心が頑なであるならば、非常に厄介なことになる。

なぜ多くの者が意根の思は非常に深遠で隠微であり、観察が難しいと言うのか。その理由を究明すれば、衆生は皆、意識の知ることを以て知ると為すからである。意識が何を知るかによって、衆生は何を知る。意識が知らないことは、知らないのである。もし意識の智慧が不足し、意根の心理活動や意根の知ることを理解できなければ、衆生は意根の心理活動や意根の知ることを知ることができず、意根の心理活動は非常に深遠で隠微で微妙であると感じる。実際には、意識の無知を責めるべきである。意識に智慧が備わり、智慧が妨げられない時、現前に意根の心理活動を観察できるようになれば、意根が深遠で難解であるとは感じず、意根が隠微で知り難いとも感じなくなり、意根の心所法を誤解することもなくなる。

もし衆生が皆、意根の知ることを以て知ると為すならば、状況はどうなるか。もし衆生が皆、意根の知ることを以て知ると為すならば、意根が知らないことは知らないのである。もし意根が意識の知ることが分からなければ、意識が何を知り、どれほどの法を知ろうとも、意根はそれを知らない。それゆえ衆生は知らないことになり、意識が学んだ理論はほとんど役に立たなくなる。意根はなおさら第八識を知らないため、悟りを開くことはさらに困難になる。この時、衆生は言うであろう:意識の心理活動は深く細かくて知り難く、非常に隠微で窺い知るのが難しい。第八識はさらに深遠で隠微で知り難く、その行相は微細である、と。

実際に諸法が隠微であるか否か、明らかであるか否かは、識の智慧によるのであって、法自体によるのではない。智慧がある時は、いかなる法も明らかで知り易く理解しやすい。智慧がない時は、いかに明らかな法であっても、深遠で隠微に感じられる。したがって、六七識が識を転じて智となった後は、意識は現前に意根の心行および第八識の心行を観察でき、それほど困難とは感じない。仏は一切の法を非常に容易に観察し、さらには観察せずとも一切の法を知ることができ、一切の法を了然と心に留めている。

もし衆生が意根の知ることを以て知ると為すならば、神通力を得るであろう。互いの間にはおそらく秘密はなくなり、前世も後世も了然となる。こうして因を知り果を識れば、おそらく悪報を少しでも減らすために、悪業を造ることも減るであろう。しかしなお、我執の強い者は少なくない。悪業を造ったために多くの苦しみを受けると明らかに知りながら、それでも絶えず悪業を造り続ける。繰り返し刑務所に入る者たちがそうであるように、死んでも悔い改めない。しかし意根には意識による明確な導きの作用がないため、単純で幼稚であり、情執はより重くなり、我性はより強くなる。意識は意根を制約するのが難しく、悪業を造る確率はより高くなり、我見を断つことはさらに困難になる。

もし衆生が皆、第八識の知ることを以て知ると為すならば、どのような状況になるか。第八識は世間法を知らず見ず、人・我・彼・彼女を知らず、色を見ず声を聞かず、六塵の境界を知らない。この場合、衆生は生存できなくなり、六根は閉ざされ、涅槃の状態に置かれる。これは良いことか。ある者は、これでは菩薩が衆生を救済できなくなると言うであろう。しかしこの時、涅槃の状態にない衆生が一体どこにいるというのか。仏菩薩が救済する必要があるのか。もし衆生が皆、第八識の知ることを以て知ると為すならば、仏法を学ぶ必要もなく、仏と衆生の区別もなくなる。

もし衆生が皆、五識の知ることを以て知ると為すならば、生存できなくなり、五蘊世間は機能しなくなる。なぜなら五識は粗重な五塵のみを了別し、微細な五塵は了別せず、まして心法を理解せず、意識も意根も第八識も知らないからである。粗重な五塵境以外は、何も知らない。もし意識すら知らないならば、どうして五塵の粗境を知ることができようか。五識は意識と協調して了別しなければ、五塵の粗重相を知ることはできるが、五塵の粗重相のみを知り、五塵の微細相を知らず、法塵を知らず、心法を知らないならば、到底生きられない。要するに、一切の法を知ろうとするならば、どの識の知を主とするにせよ、その識は大いなる智慧を持ち、識を転じて智とし、智識を用いてこそ一切の法を知ることができるのである。

——生如法師の開示
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