衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年01月10日    火曜日     第3 回の開示 合計3811回の開示

黙念と知念における心の行為とは何か

咒文を唱える際、声に出しても黙念しても、全て独頭意識による念である。意根の念には言語文字が伴わない。黙念を「知る」ことは意識の反観力であり、これは証自証分に相当する。つまり独頭意識が自らを了別し反観する作用である。ただし極めて熟達した場合、意根にも念と知が生じる。意識が黙念する時、意根は知を有する。意識が反観する時、意根もまた知を有するが、この知は深秘で認識察知が困難である。意根は独頭意識の反観作用と咒文黙念の機能を、共に自らの機能作用と見做し、自らが念じ知っていると認識する。

禅定が良好な場合、意根も咒文念誦に参与し、意識がこれを観察できるが、意識と意根の機能境界が判然とせず混同され易い。禅定ある時、第一に身心が分離し明瞭となり、連動が緩やかとなる。第六識と第七識も各々分離可能で、互いに距離を置くことで初めて明瞭さが顕れ、諸法に対する虚妄の感覚が生じる。禅定なき時は諸法が絡み合って分離不能となり、観察が曖昧になるため、混然とした法を真実堅固と感じ、執取が強く煩悩が重くなる。禅定の功徳は言葉尽くし難く、禅定なき者は修行あると云うべからず。

——生如法師の開示
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