衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年01月05日    木曜日     第4 回の開示 合計3802回の開示

どのように観想して病を除くか

一切の法はただ心より生じ、心は一切の法を創造し、また一切の法を変えることができます。現前の色身を含め、福徳・定力・慧力が十分であれば、色身を変える最も速い方法は一瞬の念にあり、遅くとも一生の内に実現します。これは八識が和合して作用し、第六・七識の妄想により五蘊がそれに従って動転する結果です。妄想によって生じた色身が自らの意に沿わないなら、再び妄想を通じて改造すればよいのです。自らの心力が不足する時は、念仏・読経・呪文を唱え、諸仏菩薩や護法善神の加護を感じ取り、色身を変え病を除くことができます。中でも呪力の効果が最も強く、心を最も集中させやすいのです。

呪文を唱え観想する方法はどうすればよいでしょうか。まず適切な呪文を選びます。病を除く呪文は数多くあり、全ての呪文が病を除く効果を持つと言えますが、効果に多少の差があります。薬師咒は薬師如来が衆生の病を除くために説いた呪文で、唱える効果が非常に良いです。楞厳咒は呪中の王であり、あらゆる問題を解決し、病を除く効果も極めて優れています。この二つから一つを選び、専心してゆっくりと唱えながら観想を合わせます。呪文を唱え観想する際、呪文の長短は問わず、全文を唱え終える必要はありません。何句唱えても構いません。心の意図が発せられれば、諸仏菩薩が信号を受け取り、加護を与えてくださいます。呪文の句をゆっくりと集中して唱えることが大切で、遅ければ遅いほど良いです。ゆっくり唱えることで、観想に集中する余裕が生まれるからです。

観想は最も重要な部分です。心の動きが転じることで、色身の現状を変えることができます。第六・七識が動くと、自らの如来蔵が心の意図に呼応し、思うことが即ち成就します。如来蔵はもちろん第七識の意根に呼応しますから、意識が呪文を唱える時、深い定力をもって意根にも呪文を唱えさせれば、事はほぼ成就します。定力が不足し意根を動かせない場合、効果は得られません。もし自らの観想力が非常に強ければ、念仏も呪文も唱えずとも、自他を変容させることができます。鍵は自らの念力にあります。呪文を上手に唱えても観想力がなく、心の念力が強くなければ効果はなく、要は観想力にかかっているのです。

どのように観想すればよいでしょうか。白い仏光あるいは黄色い仏光を観想し、病のある部位、主に内臓、あるいは全身を照らします。仏光が頭頂の百会穴から入り、全身の四肢を経て足の裏まで至る様を観じます。仏光が百会穴から入ると、頭脳全体が光明に満ち、特に勝義根のある場所が光明に包まれます。これにより眼・耳・鼻・舌の機能が健全となり、頭脳は明晰で健康になります。さらに首筋から全身の内臓に至るまで光明が満ち、病症が徐々に消え去り、色身が好転します。観想する箇所に光明が現れるにつれ、病気が退き色身が改善されます。特定部位の病が重い場合は、心力を集中してその部位のみを観想します。例えば鼻詰まりなら肺を観想し、仏光が胸元から肺に入り、肺全体が光明に変容する様を描きます。内部の病気が徐々に排出され、呼吸が正常になります。脾胃その他の器官も同様に観想します。

体内に腫瘍・腫塊・嚢胞、あるいは癌細胞がある場合は、仏光がその部位を照らし、黒い病気が少しずつ排出される様を観想します。腫瘍や腫塊は次第に縮小し、その部位の色調が健康な肌色、あるいは光明色に変化すれば病は癒えます。体内の結石も観想によって除去可能です。結石が徐々に小さくなり、最後に最も近い身体部位から排出され消滅する様を観じます。観想力が強い人は、結石がごろごろと転がって不思議に消え去り、跡形もなくなるのです。あらゆる疾病にこの方法を適用できますが、法に定まった形はなく、観想法はこれだけではありません。徐々に探求すれば多くの方法を見出せますが、基本的な考え方は大同小異です。

この方法を用いれば、遥か遠方にいる人へも観想を成功させられます。相手が地球上のどこか、あるいは地球を離れ天空や宇宙、六道のいずれかの道にいても、その容貌を覚え観想力が十分であれば、相手は利益を得て現状を変え、さらには三悪道から脱することさえ可能です。この方法は永続的に使用でき、無数の人々を利益します。ただし業を背負うことは必定です。自身の業障がまだ重い時、あるいは修行が重要な局面にある時は、まず自己に専念すべきです。道業が最も重要であり、一人が成就すれば無数の人を救えるからです。

このように観想を続けることで心が細やかになれば、観想による定力を基盤として、観像念仏や観想念仏を修められます。仏像を明瞭に細部まで観じ得れば、定慧等持の念仏三昧を証得し、明心悟りを開くことができるのです。

——生如法師の開示
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