原文:もし境界を行ずるに、能く随順する上品猛利なる煩悩の纏うところにおいて、失念の故をもって、微劣なる諸煩悩の纏縛が一時的に生起するも、速やかに作意し、疾く除遣することを得る。ただ一度この世間に生を受くるのみにして、究竟的に苦の边际に至り、不還果及び不還の相を得る。前に説いた如し。
釈:二果の聖者が境界に直面する際、欲界の上品で甚だ猛利な煩悩の纏縛に随順しやすい状況において、失念の故に微細で劣弱な諸煩悩の纏縛が生起しても、直ちに作意し、迅速に煩悩の纏縛を除き払うことができる。その後、この世間に再び生を受けるのはただ一度のみであり、究竟的な苦の边际に達し、三果の不還果を証得し、かつ不還の功徳相を具える。これについては前段で既に述べた。
初果の見道で断ずる煩悩は欲界の下品煩悩であり、これは欲界の衆生の煩悩の中で最も粗重な部分であって、人類と三悪道の衆生が有する煩悩である。天界の衆生には粗重煩悩はなく、中品と上品の煩悩を有する。人類もまた中品と上品の煩悩を有する。もし欲界衆生の煩悩を喜ばず、これに随順しなければ、欲界の中品と上品の煩悩を断除し、二果を証得する。欲界の上・中・下三品の煩悩を断除すれば、欲界の貪りを遠離し、初禅定を生じ、三果を証得する。
よって初果は見道を証し、二果と三果より修道が始まる。修道で断ずる煩悩は初果のそれよりも微細で断じ難く、一旦断除すれば智慧は増進する。初果から四果に至る修道は即ち煩悩を断除することを要し、禅定と煩悩の程度によって果位と智慧の階層を画定する。故に教理を修習する究極的かつ根本的な目的は煩悩を断除し、身口意の行いを清浄にすることにある。もしこれを為さず、単に理論を重視するのみならば、それは修道とは称されない。
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