まず、五識の生起と活動は意根に由来する。意根が作意と選択をしなければ五識は現れず、意根が作意と選択を下した後、五識と意識が同時に現れる。意根の作意と触れるところで六塵を了別する。したがって、五識の出現は意識によって決定されるのではなく、意根によって決定される。意識は五識生起の必要条件の一つに過ぎず、両者が和合して初めて完全な塵境を了別できる。その出現順序はほぼ前後を分かたず、五識の生起と運営は意識によって決定されない。
そもそも意根が五識の生起を決定できるなら、なぜ意根が五識を主宰できるのか。五識の生起は必然的に五根と五塵の接触によって促されるが、この五根と五塵の接触自体が意根によって促された結果である。五根と五塵は共に色法であり識ではないため、自発的に相互に触れ合って五識を生起させることはない。五根と五塵を接触させ五識を生起させる真の要因は意根にある。
なぜ意根は五根に五塵を触れさせられるのか。それは意根が六塵に攀縁し、六塵を詳細に了別しようとするためである。意根は単に法塵に攀縁して法塵に触れるだけでなく、五塵を含む完全な塵境全体に攀縁する。もし法塵のみに攀縁し五塵を縁さなければ、塵境に関する情報が不完全となり、選択や決断ができず、六識は生起しない。例えば目の前に色とりどりの花がある場合、法塵と五塵が和合して初めて完全な花の様相となる。もし意根が五塵を縁さなければ花の色彩を知ることができず、赤い花か青い花か紫の花かに触れることをどう決定できるだろうか。六識が選択的に塵境を了別するのは、意根が塵境に対する選択を行うためであり、その中で五塵境が重要な役割を果たす。五塵は六塵の中で非常に重要な比重を占め、かつ先に顕現しやすいため、意根は六塵を分割して縁取ることはせず、総合的に選択を下す。
例えば意根が人相に攀縁する場合、人の法塵相だけを縁取って肌色や衣服の色彩相を排除することはない。むしろ最初に色彩が最も顕著に現れ人を引き付け、その後詳細な法塵相が認識される。他の塵境についても同様であり、意根は五塵を縁取る。六塵が勝義根に入る前の五塵境に対しても、意根は当然縁取って選択を下すことができる。例えば交通事故が発生する直前、意根が対向車を縁取って衝突寸前であることを認知し、緊急に回避を選択する場合、もし意根が車の法塵のみを縁取って車の五塵境を縁取らなければ、どうして対向車の存在と衝突の危険を認知できようか。巨大な爆発が発生する直前、意根が爆発音の五塵境を縁取らなければ、どうして即座に逃げることを決定できようか。
意根が何らかの選択を下した後、五識は直ちに意識と共に生起して意根の指令を実行する。これは五識の生起が意根によって決定され、意識と共に意根に従属していることを示す。五識と意識がどの塵境で了別するか、どの程度の時間をかけるか、どの内容を重点的に了別するかは、全て意根の指揮によって主導される。要するに、意根は主導的な識であり、五根・五塵・五識に対して主導権と決定権を有する。これら相互の関係は能動と受動、主導と服従の関係である。
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