原文:終に外道を師として求請することを求めず。また彼らに対して福田の想いを起こすこともない。他の沙門や婆羅門などに対しては、決してその口元や顔つきを仰ぎ見ることはしない。ただ自ら法を見て法を得、法を知り法を得、法の源底を証得し、疑惑を越え度す。他による縁によるものではない。大師の教えにおいては、他に導かれるものではない。諸法の中において畏れることなく、終に妄りに世の瑞兆や吉祥を清浄と計らうことはない。決して第八の有生を受けることはなく、四種の証浄を具足成就する。かくの如き行者は、世第一法に至るまでは、勝解作意と名づけられる。
解釈:決して外道に帰依して師とすることはなく、外道を福田と認めることもない。他の沙門や婆羅門などに対しては、永遠に彼らの顔を仰ぎ見たり、顔色を窺ったり、彼らの言葉を重んじたり、彼らの口から法を得たりすることはなく、ただ独り自ら法を見て法を得るのである。独り法を見て法を得、法の源底(根本)を証得し、全ての疑惑を解き明かす。これは外なる因縁によるものではない。法の源底を証得できるのは、世尊という善知識の教導によるものであり、世尊以外の他処から引き出されたものではない。行者は諸法において畏れることがなく、決して虚妄に世間の種々の瑞相や吉祥を清浄と執着することはない。永遠に再び第八度目に三界世間に生を受けることはなく、四種の証する所の清浄智を具足成就する。かくの如き行者は、世第一法を修める以前までは、全て勝解作意と呼ばれる。
行者は四智現観を得た後、四加行を修習し、第四加行の世第一法以前の観行は全て勝解作意と呼ばれる。意味としては、現量実証以前の思考参究は、全て法に対する勝解と悟りとすべきであり、勝解した後に初めて現量観察を得て、実証と名づけられる。実証は初果位以上にあり、勝解は初果向あるいは四加行の世第一法位にあり、四加行を経て初めて実証見道が可能となる。ゆえに、自らの智慧が現量観察智なのか、勝解なのか、あるいは憶測推理分析なのかを如実に観察し、自らの智慧の層次を理解してこそ、次の修行を計画しやすくなる。
現観四智を具えた行者は、決して他処から法を得たり知ったりすることはなく、他人の説くところを究竟の帰依処とはせず、全て自ら現量観察によって実証に依る。法を見て得ることは自力による参究観行にのみ依り、他人は助力できず、他人が指し示し教えるものは、自らの現量観行に代わることはできない。疑惑は自ら観行によって解決すべきであり、他人の言葉は自ら内心の疑惑を解くことはできない。なぜなら自ら見て証するものではないからである。ある者は方法を講じて修行の成果を引き出そうとするが、仏法は誰が修めるかで誰が得るかであり、引き出したものは自らのものとはならず、見道の智慧を得ることもできない。『瑜伽師地論』が指針として存在し、法理はますます明らかとなる。証果明心の事について、誰が不服であっても致し方なく、そうでなければ弥勒菩薩のもとへお尋ねになるがよい。
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