衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年12月29日    木曜日     第2 回の開示 合計3792回の開示

業障は意識によるものか、それとも意根によるものなのでしょうか。

業障とは無明の障りであり、無明の力によって造り出された悪業が自心に感得した障礙であります。自心を阻んで善報を得ず、善果を得ず、また善業を得ることができず、善法が成就せず、更に一切法に対する智慧の認知を妨げます。無明は最初に意根にあり、その根本は意根の無明にあります。意識の無明も最初は全て意根から来ており、意根の無明の影響と推進を受けることにより、意識も環境の影響を受けるのです。意根の無明が断たれた後は、意識はもはや環境の影響を受けず、更に意根の無明による影響もなくなるため、意識は清浄となります。意識が最終的に清浄となるのは、意根が清浄になった結果によるものであり、もし意根が清浄でなければ、必ず意識を駆り立てて不浄な業を行わせ、染汚の業種が形成されれば、後世の業障が生じます。故に一切の業障は意根が清浄になった後に消滅するもので、意根が元凶であるが故に、鈴を解く者は鈴を掛けた者に求めねばならないのです。

意根の福徳が増し、定力が強まり、智慧も増大すれば、無明が一部分消滅し、心性も一部分転換され、性障も一部分除去されます。善法・善業・善果・善報・善縁に対する障りが一部分取り除かれ、仏道修行における障礙も一部分軽減されるのです。意根の無明がどれだけ消滅すれば、心もそれだけ清浄となり、業障もそれだけ減少し、善業もそれだけ増加します。

我見を断じて証果し、明心見性を成し遂げる時、禅定と智慧が大いに増し、心性も同時に根本的な転換を得ます。心が清浄となり法眼浄を得れば、性障が一部分除去され、これに伴って三悪道の業も消滅し、もはや三悪道で苦報を受ける必要がなくなり、残りの業は人間界で受報すれば足ります。衆生が三昧を一つ証得するごとに、業障が一部分消滅します。小乗の二果・三果・四果を含み、大乗の各関門も含み、入地すなわち初地・二地・三地に至るまでです。智慧が増し、思想観念が変わり、心が変化し、性障が除去されれば、相応する業も消滅します。懺悔もまた宿世の業障を消滅させます。内心の意根が自らの無明・愚痴・煩悩を認識し、改める決意を固め、心が変化すれば、相応する業障が消滅するか、一部分除去されるからです。

業は定業と不定業に分かれます。定業は転じることができず、必ず受報して初めて消滅します。しかし不定業は転ずることが可能で、必ずしも受報を要せず、あるいは懺悔によって一部分を消滅させ、残りを部分受報すれば足ります。仮に定業であっても、特殊な状況下では転ずることが可能です。特殊な状況とは、衆生の心力が強大で、智慧が深く、禅定力が強く、懺悔が殷重であり、心性が極めて大きく転換された場合、業もまた転ずるのです。もし全ての業が転ずることができず、必ず受報を要するならば、世に一人として仏となる者は存在しません。衆生の業が余りにも多く重過ぎて、到底報い尽くすことができないからです。またもし業が転ずることができなければ、衆生の懺悔は無意味となり、業を消滅させることは不可能となります。

——生如法師の開示
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