衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年12月29日    木曜日     第1 回の開示 合計3791回の開示

瑜伽師地論 第三十四巻(七十一)

原文:もし修行の境に至るならば、失念の故をもって、猛利なる諸煩悩の纏わりを起こすといえども、暫く作意すれば速やかに除遣し、また畢竟して悪趣に堕することなく、終に故思って学ぶところに違越せず、傍生に至るまで命を害せず、終に退転せずして学ぶところを捨てず、復た五無間業を造ること能わず、苦楽は自らの作れるにあらず、他作にもあらず、自他共作にもあらず、自も他も無因にして生ずるに非ざることを定知す。

釈:現観四智を具えた修行者が境に住する時、一時的に失念する故に激しい煩悩の束縛が生じたとしても、一時的に注意を向ければ速やかにこれを除き去ることができ、さらに決して悪道に堕ちることなく、永遠に修行の教えに背くことを意図せず、畜生の命さえ害せず、決して退転せず学んだ法を捨てず、五無間の悪業を造ることができなくなり、苦楽が自性の作るものでも、大自在天の作るものでも、自性と大自在天の共作でも、また無因から生じるものでもないことを確知する。

これは修行者が四加行の世第一法の段階における功徳の受用であり、初果を証得する以前より、激しい煩悩の束縛を速やかに除き去る能力を具え、悪道に堕ちず、四聖諦の解脱道から退転せず捨てない。見道前の四加行の功徳も甚大であり、見道後の功徳受用はさらに大いなるものとなり、解脱の智慧が実に殊勝であることが明らかである。

——生如法師の開示
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