衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年12月28日    水曜日     第2 回の開示 合計3790回の開示

黙念の原理

意根は主導する識であり、身・口・意の行いは全て意根によって制御され主導されます。心の中で経文や真言を黙読する場合も同様で、意根が黙読しようと決めると、意識は声を出さずに心の中で誦します。声を出して誦す場合も意識が誦すのですが、それは意根が誦そうと決めたからこそ意識が誦すのです。あるいは意識が誦そうとして、意根がそれを認めた場合に限り、意識は誦すことができます。要するに誦するという行為は意根が決定し、意識が造作するものなのです。

なぜ意根は声を出すか黙読するかを選択するのでしょうか。この選択は非常に微細で観察し難く、意識は常にこれが自動的で自然なことだと感じています。このような感覚は意識心が粗雑であり、定力もなく、その微細な点や隠れた部分を観察できないことを示しています。意根が声を出すか出さないかを選択するのは、身心の状態、特に体内の気が充足しているかどうかに基づきます。禅定にある時は、心を動かすと疲れを感じ、声を出すことはエネルギー消費が大きく意識が疲労を感じるため、意根は自動的に声を出さない選択をします。定力があり身体が疲労している時も、声を出さず心で誦すことを選びます。表面的には自動的に見えますが、実は意根が第八識に依り、極めて迅速かつ密接に身心の状態を了知し、身心にとって有利な選択を瞬時に行っているのです。多くの人の意識はこのことを認識していません。

黙読は定力を増進させます。あるいは定力が増強されると、声を出すことが困難になり、声を出すと心が疲れるため、自然に黙読に移行します。さらに定力が増すと、黙読さえも負担となり、金剛誦(口形だけ作って声を出さず、心の中の音声も微細なもの)に改めます。金剛誦さえも苦痛に感じる段階に至ると、頭の中の憶念に切り替わり、定力が更に増大すると憶念も不可能になり、深い禅定に入り、一切の念想がなくなります。

——生如法師の開示
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