衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常法話

2022年12月28日    水曜日     第1開示 合計3789開示

瑜伽師地論 第三十四巻(七十)

原文:能知の智と、所知の境とが和合して背かないことにより、現前に観察するゆえに、現観と名づく。例えばクシャトリヤとクシャトリヤが和合して背かず、現前に観察するがごとし。これを現観と名づく。ブラフマナ等もまたしかるべしと知るべきである。これもまた多くの相状を成就する。かくの如き諦現観を証するがゆえに、四智を得る。すなわち一切の苦行において、もしすべての作意に住して善く推求するがゆえに、唯法智を得、非断智を得、非常智を得、縁生行は幻事の如き智を得る。

解釈:真諦の法を知る智慧によって、知られるべき四聖諦の理と和合して、両者が離れず、このような現前の観察を現観という。例えばクシャトリヤとクシャトリヤが和合して背かず、互いに逆らわないように現前に観察するのが現観であり、ブラフマナを現前に観察するのも同様である。現観はまた多くの相状を成就しうる。かかる諦現観を証得すれば四智を得る。一切の苦行において、すべての作意に住して善く推求観行すれば、唯法智・非断智・非常智・縁生行が幻事の如き智を得る。

能知の智とは、法を見て法を知り法を証する第六識・第七識のことで、如実の観察智慧を具える。所知の境とは、第六識・第七識が観察する理法、例えば四聖諦の理や般若の法などを指す。智と境が和合して背かず、このような現前の観察を現観という。

和合して背かないこと、互いに逆らわないことは、主に第六識・第七識の智慧の境界、あるいは智慧の次元による。智慧が十分に法を正しく観察し認識すれば、理法と背かず、かつ現前の観察であって、推測や推理、想像分析ではない。現前に存在する法が事実そのままであることを、現量で観察し現量で認識する。これを現観という。現観の時、法を証得し、法智と類智を得る。現観でないものは法智と類智がなく、証果を得ない。

法に対する観察が現前か非現前かをどう区別するか。例えば苦諦を観察する場合、五蘊が苦であると感じる。五蘊が苦であることを現前に観察した後は、内心の苦に対する認識が深まり、時処所縁において心の念頭が常に五蘊の苦を感知し、かつ心の念頭が苦から逃れ苦を滅したいと願う。この心構えが無間作意を形成し、間断がない。無間作意とは、意根から生じる作意であり、意根が苦を感知したことで、単に意識の表面に留まらない。これが現前観察の結果である。

非現前観察の苦は、無間作意を形成しておらず、断続的で時折忘れ、苦を忘れて楽を追求し、出離心が強くなく、覚悟が高くなく、行動力はさらに劣る。楽の境が現前すると自らを見失い、楽の境に深く陥って苦を知らず、将来への期待が依然として大きく、楽を得て保てると妄想する。このように一方で苦と感じつつ他方で楽を追求する、心と行為が相反する状態が、苦を現前に観察していないことである。非現観の者は弁別する智慧力が不足しているため、往々にして自らのこの状態を現量観察だと思い込み、法を実証したと誤解するが、実際には実証とはまだ相当の隔たりがある。

非現前観察の者の普遍的特徴は、煩悩が除かれず、無明が断たれず、言行が一致せず、表裏が違い、言うことと行うことが異なり、東を指して西へ行き、口では空を説きながら行為では至る所で有に執着し、空であるところは一つもなく、口では無我を説きながら時処所縁において常に我であり、隠そうとしても隠しきれない。実証がないため、実証後の身心の境界を知らず、自らの思惟や行為がすべて実証の境界と反していることも知らない。それゆえ根本的に自らの凡夫の特徴を覆い隠せないのである。

——生如法師の開示
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