衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年12月17日    土曜日     第2 回の開示 合計3785回の開示

瑜伽師地論 第三十四巻(六十八)

ここより無間なく、先に観じた諸聖諦の理に対し、内なる作意を起こす。作意が無間断であれば、先の次第に従って観じた諸諦、すなわち現見されるもの、現見されざるもの、諸聖諦の中において、その次第のままに有無を分別し、決定智と現見智が現前する。この智が生じるにより、三界に係わる見道によって断じられるべき、附属する所依の諸煩悩品中の一切の粗重は、ことごとく永く断絶する。

解釈:ここより無間断に、先に観行した四聖諦の理に対し内在的な作意を生起させ、作意が途切れず、先の次第に従って観行した四聖諦(現量で見られるもの、あるいは現量で見られざるもの)において、その順序通りに有無を分別した後、決定智と現見智が生じる。この二智が生じた後、三界に繋縛された見道によって断除されるべき、心の所依止に附属する一切の煩悩品中の粗重なる部分は、すべて永遠に断絶する。

本段は見道の部分を説く。四加行を経て無間断に作意観察を続ければ、智慧が生じ決定がなされ、四聖諦の苦集滅道の理を確認すると同時に、現量見法智が生じて我見を断ち初果を証得する。見道して初果を証得する時、一切の粗重な煩悩は永遠に断絶し再び生起しない。故にもし粗重な煩悩が依然存在し、煩悩が比較的重く見えるならば、それは未だ見道による初果証得がなされていないことを示す。ここに、一人の身口意の行いの表現はその者が見道したか否かを十分に説明し得る。外見上、身口意が清浄に見える者が必ずしも見道者ではないが、見道者の身口意は必ず清浄であり、粗重な煩悩を有しない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論第三十四巻(六十七)

次の記事 次の記事

強迫性障害の唯識的解析

ページのトップへ戻る