原文:ここから無間断に、前に観じた諸聖諦の理に対して、内作意を起こす。作意が無間断であると、前の次第に観じた諸諦に随い、もし現見であるか、もしくは非現見であるか、諸聖諦の中で、その次第の如くに、有無を分別し、決定智・現見智が現れ生じる。これによって生じるが故に、三界に繋がれたる、見道によって断じられるべき、所依に附属する諸煩悩品の一切の粗重は、ことごとく永遠に断たれる。
解釈:ここから無間断に、以前に観行した四聖諦の理に対して、内的な作意を生じさせ、作意が間断なく続き、以前の次第に観行した四聖諦、あるいは現量で見られるもの、あるいは現量で見られない四聖諦に随い、その次第に従い、有るか無いかを分別した後、決定智と現見智が生じる。決定智と現見智が生じた後、三界に繋縛された、見道によって断除されるべき、心の所依止に附属する全ての煩悩の品類における一切の粗重な部分は、すべて永遠に断除される。
この段は見道の部分を述べている。四加行の後、再び間断なく作意観察を続けるならば、智慧が生じ、決定を下し、四聖諦の苦・集・滅・道の理を確認し、同時に現量見法智が生じ、我見を断って初果を証得する。見道によって初果を証得するのと同時に、一切の粗重な煩悩はすべて永遠に断除され、再び生じることはない。したがって、もしある人に粗重な煩悩が依然として存在し、煩悩が比較的重く見えるならば、それはまだ見道によって初果を証得していないことを示している。このことから分かるように、ある人の身・口・意の行いの表現は、彼が見道したかどうかを十分に説明するものである。外見的に身・口・意の行いが比較的清浄であるからといって、必ずしも見道したとは言えないが、見道した人の身・口・意の行いは必ず清浄であり、粗重な煩悩は存在しない。
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