衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年12月05日    月曜日     第3開示 合計3777開示

意識の煩悩の源

意根は意識が生じる際の俱有依であり、また意識の心の染汚と清浄の所依でもある。意識は意根と法塵が接触した後、意根が抉択・造作して初めて生じるものである。意識の煩悩はどこから来るのか。一つの源は意根による調節と薫染からであり、もう一つは周囲の染汚環境による薫染から形成される。

意根はどのように意識を調節し薫染するのか。意根が六塵の境界に接触する時、おおむね塵境が心に適わないと判断すると、意根はまず心に煩悩を起こし、かつ塵境に対治しようとする。そこで意識が生じ、意識は意根の指令に基づき、当該の法塵を了別する。身口で行動を起こす際には煩悩を伴うため、身口は染汚となる。これが意識が意根の調節を受けた結果である。薫染とは、意根の煩悩が現れる度に意識を薫染し、意識は次第に薫習され、意根と同じ煩悩を持つようになることを指す。例えば嬰児が生まれたばかりの時、意識には煩悩がないが、時間が経つと意根の先天の煩悩が意識の心行を左右し、意識は次第に意根の煩悩と一致するようになる。これが意根による薫習である。意識に覚悟が生じた時、初めて煩悩を幾分軽減し、逆に意根の煩悩を制御できるようになる。

意識の煩悩の第二の源は、塵境による薫染である。常に同類の人の種々の煩悩の中に身を置き、日々積み重ねて薫習するうちに、心に煩悩が現れる。意識の煩悩は再び逆に意根を薫染し、意根にも同じ煩悩を持たせる。煩悩を断った後の意根は薫習されにくく、仮に偶発的に煩悩が生じても、それは意識の一時的な煩悩であり、後になれば消滅し、長く持続することはない。

——生如法師の開示
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