原文:何故か。彼には、現観を障げる粗品の我慢がなお存在し、作意に随入して間断なく転じ、このように思惟するからである。『我は生死においてかつて久しく流転した。我は生死においてまた流転すべし。我は涅槃においてまさに入るべし。我は涅槃のために諸の善法を修す。我は苦を観じて真実に苦であるとすることができる。我は集を観じて真実に集であるとすることができる。我は滅を観じて真実に滅であるとすることができる。我は道を観じて真実に道であるとすることができる。我は空を観じて真実に空であるとすることができる。我は無願を観じて真に無願であるとする。我は無相を観じて真に無相であるとする。かくの如き諸法は我が所有するものである』。
釈:なぜ深く心に生死を厭怖し涅槃を願楽しながら、涅槃に入ることができず、さらに勝解することも安住することもできないのか。修行者には現量観行を障げる粗い我慢がなお存在し、観行の深入に随って断絶のあるあるいは断絶のない作意が生じ、心中でこのように思惟するからである。『私はかつて生死において長く流転した。私は生死においてさらに流転を続ける。私は将来涅槃に入るであろう。私は涅槃のために諸々の善法を修習する。私は苦諦を観察して真実に苦であるとすることができる。私は集諦を観察して真実に集起であるとすることができる。私は滅諦を観察して真実に滅するとすることができる。私は道諦を観察して真実に道であるとすることができる。私は空を観察して真実に空であるとすることができる。私は無願を観察して真に無願であるとし、無相を観察して真に無相であるとする。このような諸法は私が所有するところである』。
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