意識と意根が縁とする法は同じであり、意識が了別するのは必ず意根が攀縁する法である。そうでなければ意識を出生させる必要はない。意識が出生するのは意根に奉仕するためであり、意根に服従すべきである。しかし意識が出生して法を了別した後、思惟分析を通じて自らの見解を持つようになり、意根に逆らったり、意根の心意に合わないことがあるかもしれない。もし意識が正しい知見を持てば、徐々に意根を捻じ曲げることができるが、それは意根がどの程度受け入れられるかによる。もし意識があまりに急進的であれば、意根を怒らせてしまい、意根を道に導くことができなくなる。
したがって、もし意識が聡明であれば巧みに意根を導くが、意識が愚鈍であれば効果がなく、むしろ逆効果になったり、意根に引きずられてしまうかもしれない。仏教徒の意識は意根に対してこのような態度を持つべきである:あなたが私を連れて乱暴に走らせても私は従わない、あなたが私を貪瞋痴に導いても私は従わない。徐々に意根は手の施しようがなくなり、自ら道案内をしなくなり、逆に意識に導かれるようになる。
意根を定まらせようとするなら、意識は法に縁を少なくし、法を了別することを少なくし、法を念ずることを少なくするか、あるいは法に縁せず、法を了別せず、法を念じないようにする。このようにすれば意根は意識からのフィードバックを得られず、法を念じ続けても無駄だと悟って心を動かさなくなり、こうして意根は次第に定まってくるのである。
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