原文:また、このように了相作意は、なお聞思の間雑であると知るべきである。もし観行者が諸諦においてこのように数数正しく観察するならば、十六行によって四聖諦の証成道理が得られ、すでに決定を得る。さらに諸諦の尽所有性・如所有性において、聞思の間雑作意を超え、ひたすら修行勝解を発起する。これを勝解作意と名づける。このような作意は、ただ諦境に縁り、ひたすら定中にある。これによって多く修習するゆえに、苦集二諦の境において無辺際智を得る。
解釈:以上述べたこれらの了相作意は、依然として間雑した聞思の智慧に属している。もし観行者が四聖諦においてこのように絶え間なく正しく観察するならば、十六行相によって四聖諦の証成道理が得られ、すでに心に決定を得る。さらに四聖諦の尽所有性と如所有性において、間雑した聞思作意を超え、ひたすら修行勝解を発起することを「勝解作意」と称する。このような作意は、ただ真実の境界に縁り、常に定中にある。勝解作意を修習し、かつ勤めて修習するがゆえに、苦諦と集諦という二つの境界において無辺際智を得る。
四聖諦について心に決定を得る前の了相作意は、聞思が混ざり合っており、純粋な正観察ではなく、また無間断な観察でもない。もし無間断に正しく観察できるならば、初めて四聖諦について心に決定を得ることができる。心に決定を得た後に初めて勝解が生じ、勝解した後に初めて証することができる。四聖諦の尽所有性とは、四聖諦が覆う範囲を指し、如所有性とは四聖諦の理にかなった全ての性質を指す。もし観察が無間断な正観察であれば、間雑した聞思の段階を超えることができ、この時に四聖諦に対する勝解を発起することができ、これを「勝解作意」と呼ぶ。もし常に禅定を保ち、禅定を失わず、心がただ四聖諦にのみ縁り、他の縁がなければ、このような作意観察によって無辺際智を得ることができる。
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