衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年11月23日    水曜日     第3 回の開示 合計3763回の開示

意根にとって意識は何の役に立つのか

五識と五蘊は、いずれも意根が必ず用いなければならない工具である。これらの工具がなければ、意根自らは世間において無力であり、六識と五蘊を自らのために用い、六識と五蘊を利用して世間の一切の法を貪り取る必要がある。六識と五蘊がなければ、意根は為す術もないのである。

よって意根は多くの法を知り得るが、必ず意識がこれらの法を処理しなければならない。例えば身近に鬼神が現れた場合、意根は非常に恐ろしく感じ、自らが脅かされると畏れるが、自らでは鬼神に対処できず、単独で避けることもできない。そこで身の毛がよだちつつ、警戒する意識がこの事を知る。意識は怪訝に思う「いったい何事か、どうして恐ろしいと感じるのか?周囲に何か陰気な事があるのか?」と。意識が聡明であれば考えて、周囲に鬼神がいることを知り得、そうして避ける方法を思惟する。これにより意根は目的を達するのである。

故に意根に知性はあるが、事柄は意識と五蘊が処理せねばならない。意根が法を証した後、身口意の清浄行は意識五蘊が実践せねばならない。すなわち六識の清浄なる身口意行は、意根の清浄を体現するのである。しかし相当に高い次元に修め至った後、四禅八定を修得し、無量の神通力を具えるに至れば、意根が六識に代わることを得る。この時は六識を用いず、一切の事を意根自らが処理し、極めて迅速かつ円滑に事を成す。よって意識の機能と地位は意根に比べるべくもなく、両者の関係は永遠に主従関係である。主人は使用人に雑事を処理させ、主人の能力が大いなる時、全てが現代的な程序となれば、使用人を用いずとも自ら全てを善く巧みに処理し得るのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論第三十四巻(五十四)

次の記事 次の記事

瑜伽師地論第三十四巻(五十五)

ページのトップへ戻る