滅諦の相を正しく覚了した後、更に真の対治道を正しく覚了する。知るべき境に対して、普遍的に真実の理を求め得るが故に、実如に真実の理を求め得るが故に、四つの門に随って理を転じるが故に、一貫して涅槃に趣向し得るが故に、道・如・行・出と名づけて説くのである。かくの如き修行者は四種の行によって道諦の相を了知する。これを四聖諦に対する自内現観の了相作意と名づける。
真の対治道とは何を指すか。道とは方法・手段・道筋を指し、対治とは心中の貪瞋痴無明の煩悩を対治することを指す。無明とは苦を知らず、苦集を知らぬことである。故にこの無知を対治し、知へと転じる。無明がなければ対治の必要もない。苦を滅し、集を断ずるために修める道を道と名づけ、苦を滅する過程こそが道行である。戒定慧を修め、三十七道品を修し、四聖諦を思惟観行する。これが道行である。
如行とは、心を苦空無常無我の真理・法理に相応せしめ、知るべき境たる四聖諦の法に対し、能く普遍的に深くその真実理を求め、能く実如にその法理を思惟観行し、知るべき境の内包する正理を了達し、四聖諦の真理を証得することである。行行とは、如行によって無明を断じた上で、心行が転変し、その全ての心行が認知した真理に随順し、苦空無常無我の真実理に背かないことである。出行とは、道を修めることによって煩悩を断除し、身口意の行いが清浄となり、五蘊の世間に攀縁せず、寂静無為となり、身心解脱して涅槃に趣向し、三界を出離し、生死輪廻の苦より解脱することである。
道・如・行・出の四種の行によって道諦を了知する。以上の四行によって知られる如く、道を修める過程において戒定慧が増長し、五蘊の世間に対する認識が真実理に契合し、無明が薄らぎ、煩悩が軽減され、心行が聖道に背かず、身心世界が次第に転変し、清浄がある程度に至り、道に相応し、聖賢に相応して初めて聖道を証得するのである。証果した後に初めて身心の転変を始めるのではなく、身心を聖賢に相応するまで転変せしめなければ聖賢となることはできない。学生が試験に合格せねば入学できない理と同一である。
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