衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年11月20日    日曜日     第3 回の開示 合計3757回の開示

身口意の行いは意識によるものか、それとも意根によるものか

身口意の行為はすべて意識によって造作されるものであり、意根の無明に駆り立てられて造作されるものです。もし意根に無明がなければ、意識に無明に染まった業を造作させることはありません。これが十二因縁で説かれるところです:意根の無明が意根の思心所を生起させ、身口意の行為を造作しようとする選択が生じます。意根が選択した後に意識と五識が生じ、意根の心行と選択に沿った身口意の行為を造作します。この中で意根が主導的立場にあり、意識はただ意根の調制に従っているに過ぎません。例えば五歳の子供が醤油を買いに出かけるのは大人が指図したもので、大人が家庭で衣食住を管理し、不足があれば子供に買いに行かせます。例えば会社員の仕事は上司が手配し配置するもので、社員は上司の管理に従わなければなりません。例えば社会の各業界の活動は国家の上層指導部が配置し、下部組織は上層指導部門の配置に基づいて業務を展開し、命令に背くことは許されません。

衆生の身口意の行為は表面的には意識と五識によって造作されているように見えますが、本質的には意根の意思と主張を表しており、意根の習気と習慣を体現しています。主従が調和して作用することで五陰身は協調しますが、もし調和して作用しなければ、意根の精神分裂や崩壊を引き起こし、精神疾患に至る可能性があります。もちろん時として意根が特定の法を理解できない場合には主意や主張がなくなり、意識の意見や見解に従うことになります。時には盲目的に従うことさえあり、意識が主張する内容が結局どういうものかもあまり理解していません。この時こそ意識の強大さが現れますが、もし意根が智慧を持てば、意識は意根よりも強くなることはなく、永遠に意根自らが主意を決めることになります。

——生如法師の開示
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