原文:また差別がある。すなわち、愛が取の因であることを了知するゆえに、さらに招き集めることができる。すなわち、その取を因として有があるゆえに、さらに有為を上首として生起させ、将来の生を招く。また生を縁として老病死などの諸々の苦法を引き起こすことができる。それに応じて、因・集・起・縁と説かれることを知るべきである。
釈:四つの行の間にはさらに差別があり、次第が異なる。愛が取の因であることを了知し、愛はさらに招集し続けることができる。取はまた後世の有の因となり、それによって後世の有を生起させ、有を縁として後世の五蘊が出生する。さらに生を縁とする老病死などの諸々の大苦聚を引き起こすことができる。四つの行の次第に従って、それぞれ因・集・起・縁と説かれる。
集諦の因は愛である。愛があるゆえに、取が生じる。取得したか否かにかかわらず、苦相がある。後世の有が生じた後、生相が現れ、苦相が現れる。苦の根源である貪愛を断除して初めて苦を断除できる。愛の因は受であり、受の因は触である。触と受はあっても、触と受の際に貪愛がなく、触れられるもの・受けるものに心を向けなければ、後世の苦は現れず、集諦は滅する。現在の愛が苦を引き起こす因であるならば、愛の集起は苦を出生させ、愛集はすなわち苦集である。苦が生じた後、苦受が現れる。これを苦起という。愛は未来の苦の種子を摂受することができ、愛が招集するものはすべて苦の種子であり、未来の苦を生じさせる。愛・取・有・生・老が次第に諸苦の集起を招引するゆえに、愛は苦の縁である。
集諦は十二因縁の一環に属する。解脱の道において、声聞法と縁覚法は互いに含摂し、共通点がある。独立した縁覚法はなく、独立した声聞法もない。ただ二つの法が関わる層の深浅に差があるのみで、解脱に別はない。
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