衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年11月18日    金曜日     第2開示 合計3754開示

修行とは心の地を清めることです

独影境の顕現は、意根が法塵に攀縁し、法塵に作意した後に念を起こすことによって生じる。如来蔵は独頭意識を生起させて意根の指令を完成させ、意根の念想を実現する。意根がどの法に作意するかによって、独頭意識はその法において生じ、その後意根の旨意に従って運行する。意識の念が起きて初めて知が生じる。知られる法とは、情報に類似した法塵の一種であり、五塵とは関係がない。それはある思想観念かもしれず、あるいは一つの追想かもしれず、未来への憧憬かもしれず、問題に対する思惟分析判断かもしれない。意根が追憶しようとすれば、意識は過去の人や事を思い出す。意根が特定の言葉の意味を知ろうとすれば、意識はその言葉を思惟分析する。意根が翌日の行程を考慮しようとすれば、意識は翌日の行程手配を思惟する。

独頭意識が念を起こすのは、意根によって牽引され、意根の念や考えに随って生滅し動転する。例えば、意根がある人物を思い浮かべると、第八識は直ちにその人物に関連する法を現起させる。意根が触・思した後、考慮したいという選択を下すと、独頭意識が出現してその人物に関連する法に作意し、触・受・想・思を行う。すると意根は知った後に決定を下し、その後独頭意識はさらに深く運行を続けるか、あるいはこの法において消滅し、他の意根が攀縁する法の上に出現するかもしれない。

意根の種々の攀縁によって独頭意識の雑念が生じる。念がまさに昇ったその瞬間には境は顕現せず、第一の瞬間に念の起こりを知り、その後初めて境像が生じる。念の起こりと境の顕現には一つの過程が存在する。境界はもともとそこに存在するが、意識がなければ知ることができない。意識が出現する時、第一・第二刹那の了別は不完全で不明瞭であり、第三・第四刹那の了別によって法が比較的明瞭に顕現し、初めて結論を得て法の輪郭が現れる。その後に初めて思惟分析が行われ、法が明らかになる。

心の中の雑念の大部分は過去に経験したものであり、曾習境と呼ばれる。これにより、意根は法に対して往々にして意図的・無意図的に執取し、慣性の力が強く、心が空ではなく、経験した一切の人・事・物理を放つことができず、これらの法を全て心の中に旋回させて捨てようとせず、まるでゴミのように心の間を堆積させ、汚く穢れているにもかかわらず、一度も清掃したことがないのである。修行とはすなわち、常に心の中の衛生を清掃し、大掃除・大整理を行い、心の地を清潔に保つことである。そうして初めて心室は光明で清浄となる。清掃は意識が主導し督促し、意根が同意すれば、依然として意識が清掃を行う。献策と事務執行は全て意識が担当し、意根はただ肯いて指令を下し決裁するだけでよい。

——生如法師の開示
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