衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年11月03日    木曜日     第3 回の開示 合計3724回の開示

業とは何でしょうか

業力はまた行為の習慣的勢力とも呼ばれ、善業力・悪業力・不善不悪業力に分かれます。例えるならば、前方の危険な場所へ全速力で走る車のようなものです。速度が極めて速い中、運転手は前途の危険に気付き、減速してブレーキをかけ方向転換すべきだと感じます。しかし二つの理由により速度が落ちず、全くブレーキも方向転換もできません。一つの理由は、運転手が認識していながら行動力が伴わない、あるいは心が混乱し手際悪く行動力が弱いこと。もう一つの理由は車自体の慣性作用が大きすぎる、あるいはブレーキが故障していること。この二つの原因により、車は依然として危険な場所へ急速に向かい続けるのです。

多くの事柄は意識したからといって必ずしも実践できるわけではありません。意識するとは認識したことを意味しますが、認識しながら実行できないのは意根が決断を下していないからです。どうすれば実践できるのでしょうか。衆生の五蘊というこの車は無始劫以来の巨大な悪業力によって慣性的に三悪道へ向かっています。この車を運転する運転手、あるいは所有者は誰か?もちろん主導する識である意根です。三悪道へ向かう軌道から離脱し、方向を転じて三善道へ、仏国浄土へ向かわせるためには、五蘊の車を操る運転手あるいは所有者が極めて重要です。なぜ意根は車を三悪道へ向かわせるのでしょうか。運転するのは意識だと言う人もいますが、意識が滅した時、五蘊の車は走行中か停止しているのでしょうか。意識が酔っ払ったら車はどうなるのでしょう。意識は副運転手として、ナビゲーターとして、運転手がハンドルを正しく握るよう指示し督促する役目しか果たせません。

衆生が三悪道へ向かうのは三縛結があるためで、五蘊の車を三悪道の途上に縛り付けているのです。実際には意根という運転手の三縛結が、意根に三悪道の途上を運転させています。ゆえに所謂業力とは主に意根の業力を指すのです。意根が我見を断じ、三縛結を断てば、方向を転換し車を善道へと導きます。

六塵の境界に直面する時、業力は顕現します。例えば財色の面前において、衆生の意根はそれぞれ異なる業力を持ち、財色に対する異なる慣性的な力を有しています。悪業の力が強ければ財色に貪着し、善業の力が強ければ財色を顧みず、むしろ布施します。不善不悪の者は縁に随って中道を取ります。衆生の業力が顕現する時、あらゆる勧告は風の如く耳を過ぎ、心に届きません。もし善業の力が強ければ逆境にあっても染まらず、流されず、清浄な心を保ちます。泥中にあって染まらざる者、これを菩薩と称します。もし意根がその悪業の力を改めず、煩悩を降伏させなければ、我見を断ち三縛結を断って三悪道を離れることは絶対に不可能です。四正勤で悪を断ち善を修めることは必ず実践すべきです。悪を断たず善を備えなければ、三悪道を免れることはできません。

——生如法師の開示
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