業力はまた、行為の習慣的な勢力とも呼ばれ、善業力・悪業力・無記業力に分類されます。例えば、車が全速力で前方の危険地帯に向かって走行し、速度が非常に速い場合、運転手は前方の危険に気付き、減速してブレーキをかけ方向転換すべきだと感じます。しかし二つの理由により速度が落ちず、全くブレーキも方向転換もできません。一つ目の理由は、運転手が認識していながら行動力が伴わない、あるいは心が混乱して対応できない状態にあること。二つ目の理由は、車自体の慣性作用が強すぎるか、ブレーキの故障です。この二つの要因により、車は依然として危険地帯へ向かって疾走し続けます。
多くの事柄は認識できたとしても、必ずしも実践できるとは限りません。認識したというのは意識が知覚したことを指しますが、意識が知覚しても実行できないのは、意根が決断を下していないからです。どうすれば実践できるのでしょうか。衆生の五蘊という車は、無始以来の巨大な悪業力によって三悪道へ慣性的に突き進んでいます。この車を運転する運転手、あるいは車の所有者は誰か。もちろん主導権を持つ識である意根です。三悪道へ向かう軌道から脱却し、方向を転じて三善道や仏国浄土へ向かうためには、五蘊の車を操る運転手、つまり意根が極めて重要です。なぜ意根は車を三悪道へ向かわせるのでしょうか。運転手は意識だと言う人もいますが、意識が消滅した時、五蘊の車は走行を続けるのか停止するのか。意識が酔ってしまったら、車はどう処理されるのか。意識は副操縦士として、ナビゲーターとして、運転手がハンドルを正しく操作するよう指示し促すことしかできません。
衆生が三悪道へ向かうのは、三縛結が存在し、五蘊の車を三悪道の途上に縛り付けているからです。実際には意根という運転手の三縛結が、意根に三悪道の途上を走行させています。したがって業力とは主に意根の業力を指し、意根が我見を断ち三縛結を断てば、方向を転換し車を善道へ導くことができます。
六塵の境界に直面する時、業力は顕現します。例えば財産や色欲の前では、衆生の意根はそれぞれ異なる業力を持ち、財色に対する慣性的な力が異なります。悪業の力が強ければ財色を貪り、善業の力が強ければ財色を顧みず、むしろ布施します。無記業の場合は縁に随って中道を取ります。衆生の業力が顕現する時、あらゆる忠告は風の如く耳を過ぎ、心に響きません。善業の力が強ければ逆境にあっても汚染されず、俗流に染まらず、清浄な心を保ちます。泥中にあって染まらない者を菩薩と呼びます。もし意根が悪業の力を改めず、煩悩を降伏させなければ、我見を断ち三縛結を断って三悪道から脱することは絶対に不可能です。四正勤によって悪を断ち善を修めることは必須であり、悪を断たず善を備えなければ、三悪道を免れることはできません。
9
+1