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日常法話

2022年09月27日    火曜日     第1開示 合計3689開示

時間と心の不相应

時間とはいかなる法か。物質のような実有の法であろうか。時間は物質色法ではなく、心法でもない。色でも心でもなく、心と相応しない行法である。なぜ時間は心と相応しないのか。心が変現した法は必ず心と相応するからである。三能変識が和合して変造した法は三能変識と相応し、生滅変異増減し、心のままに変化する。しかし時間という仮法は三能変識が変造したものではなく、心法・色法・心所法が和合して顕現した仮法である。ゆえに心のままに変化せず、生ずることも滅することもなく、延長も短縮もできず、得ることも失うこともできない。時間は物質のような実有の法ではない。物質色法は四大種子によって形成された実法であるが、時間はいかなる種子によっても形成されず、物質の相対的変化によって顕現するものである。したがって非実有の法、仮法であり、亀の毛、兎の角のごとく、見えず、触れず、捉えられない。

時間の作用とは何か。時間には実質的な作用はなく、仮法は用いることができない。時間は仮法であり、用途がないため、互いに贈与したり侵奪したりすることもできない。ある人は言うだろう。「あなたは私の時間を占有した、私の時間を無駄にした」と。実際にはそのようなことは全くなく、誰も時間を占有したり無駄にしたりすることはできない。例えば、今私は食事をすべきところ、あなたが来たため、私はあなたと話をせざるを得ず、あなたの用件を処理した。その結果、食事はできなかった。この中に時間が関わっているだろうか。食事にせよ、会話にせよ、用件の処理にせよ、その中に時間という法は存在しない。始めから終わりまで、人・事・物の運転であり、人事物の三者が和合して運行しているのである。この過程の長短が時間を顕現させているのである。

心法と色法の運行過程、顕現過程の長短を時間と呼ぶ。物質変化過程の長短を時間と呼ぶ。例えば、嬰児が生まれて一ヶ月後を満月と呼ぶ。一ヶ月は時間であるが、実際には嬰児の生長発育の一過程に過ぎず、時間というものはない。嬰児が一年、十年、百年生長発育すること、一秒、一分、一時間、一日というのは、すべて嬰児の生長過程を指しているのであり、時間という法は存在しない。時間は受動的に顕現しているのである。ある人が「今、時間が止まったように感じる、動いていない」と言うが、実際には心が動かなくなり、分別しなくなったのであり、時間というものはない。時間が動くか動かないかを論じるのは戯論であり、亀の毛や兎の角がどうのこうのと論じるのと同じで、すべて戯論である。

私たちが時間を見るのは時計を見ることであり、時計の秒針・分針・時針が組み合わさって時間を表示している。これらの針がなければ時間はなく、これらの針があっても同様に時間はない。時間の根本は天空の太陽の運行位置に依って顕現する。太陽がなければ時間はなく、太陽があっても同様に時間はない。太陽が地平線から昇るとき、人類はこの状態を一日の朝と定義し、同時に気温が比較的低いため、朝陽が昇るこの状態を朝と定義する。太陽が頭上に昇ると、人類は一日の昼の時間と定義する。太陽が沈んで地平線以下になると、人類は一日の夜と定義する。このように太陽が一周運行するのを、人類は一日の時間と定義する。さらに太陽の運行周期を数え、それぞれ十日半月、一月から十二月、一年二年などと定義する。すべての長短の時間は物質色法に依って初めて顕現するのであり、時間という実在の法は何もない。

もしある人が私に何か用事を頼むなら、私は「時間がない」と言う。実際には誰も時間を持っているわけではなく、ただそれぞれが自分のやるべきことを持っており、他のことができないため、仮に「時間がない」と名付けるのである。何事をするのも心法と色法に関わっており、心法は識の種子によって形成された生滅変異の法であり、これも実有ではない。時間よりは幾分実在的ではあるが。物質色法はすべて四大種子によって形成された法であり、同様に実有ではない。ただ時間よりは幾分実在的であるに過ぎない。心法も色法も虚妄の法であり、両者が和合して顕現する時間は、なおさら虚妄の法である。

もしある人が自分が生きる時間を長くしたいと願うなら、時間を引き延ばすのではなく、自分の色身五陰が運行する流れを長くするのである。ある人が生きる時間が短いのは、時間を短縮したのではなく、五陰身が運行する流れが短いのであり、時間という相も法も存在しない。ある人は時間割を作ることを好むが、実際には時間割ではなく、時間上の計画ではない。人事物を処理するフローチャートであり、人事物の手配の流れである。生命の中に時間相がなくなったとき、心はどれほどの束縛から解脱できるだろうか。以前、時間の観念があったために、自分にどれほどの制約を課しただろうか?どれほどの執着を増やしただろうか?

例えば一つの夢を見る。一つの長い夢、長々とした夢の中で、一生を生き、何劫もの時間を生きた。酸いも甘いも、悲しみも喜びも、離合集散、流離転々。目が覚めたとき、ただ一つの夢に過ぎなかったと気づく。何事も起こらず、誰も現れず、何物も得ず失わず、自分は無事であった。夢の中には人事物もなく、時間もない。すべてが虚妄であり、目が覚めれば夢から解脱する。同様に、一切の衆生は生死の大夢の中で流離し、困窮苦悩している。この生死の大夢は夜に見る夢と同じであり、何一つ実在の人事物はなく、時間も空間もない。何もなく、虚妄である。目が覚めたとき、自分は得るものもなく失うものもなく、掛けるものも障るものもなく、了然として事なきことに気づく。この時、大解脱し、究竟して仏となるのである。生死の大夢から目が覚めたとき、衆生が成仏するのは刹那の間に過ぎず、三大阿僧祇劫という時間の隔たりはない。

——生如法師の開示
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