原文:また世尊は言われた。比丘たちよ、知るべきである。この器世間は長い間安住しているが、それを過ぎた後、次第に七つの太陽が現れるまで至る。『七日経』に詳しく説かれているように、ついにすべての大地、諸山大海、及び蘇迷盧の大宝山王、さらには梵世に至る諸器世界までもが焼き尽くされる。災いの火が消えた後は灰すら現れず、ついには影さえも得られない。この法門によって、世尊は諸器世間が無常なる性質であることを示された。かくの如く、至教量の理に依り、観行を修める者は清浄な信心の増上する作意力によって、一切の行が無常なる性質であることを決定を得る。決定を得た後は、即ちこの如き清浄な信心の増上する作意力によって、数数尋思し観察し、一切が現に見て背かず、他による縁によらないのである。
釈:世尊は『起世因縁経』の中で説かれた。比丘たちよ、お前たちは知るべきである。この娑婆世界という器世間は今なお長い間安らかに住んでいるが、この期間を過ぎた後、次第に二つの太陽、三つの太陽が現れ、ついには七つの太陽が現れるに至る。『七日経』に説かれているように、この時器世間にあるすべての大地、諸山と大海、及び欲界天にある須弥山、さらには色界にあるすべての器世間までもが焼き尽くされる。火災が過ぎ去った後は灰塵も消失して見えなくなり、いかなる影さえも見つけられなくなる。
世尊が説かれたこれらの事柄は、正にあらゆる器世間の無常性を示している。世尊の開示を聞き、世尊の説かれた至教量の理に依止し、観行を修める者は諸行無常に対する清浄な信心が増上し、諸行無常に作意する力が強まる。それによって一切の行が無常なる性質であることを決定を得る。心が決定を得た後、再びこの種の清浄な信心が増上する作意力によって、絶えず尋思し観察して諸行の無常性を現見する。一切の行の無常性が至教量の理に背かず、このような現見は他の因縁によって提示されたものではなく、如実に観察することによって自心が現見するのである。
諸行無常を観察するには、清浄な信心の力に依る必要がある。世尊の説かれる諸行無常を信じ、心を清浄にして他の考えを起こさない。清浄な信心によって初めて作意し観察し尋伺して諸行無常の性質を観ることができる。もし清浄な信心がなければ、諸行無常を信じなければ、作意して観察しようとはしない。観察とは自心が現見することであり、もし現見でなければ現前の観察とは言わない。自心が現見することを現量による観察、現量による所証ともいう。現とは現前に存在し、真実に存在する意味であり、思惟や想像で補い出したものではない。修行者は世尊の諸行無常という至教量の理を薫習し、禅定の中で諸行の無常性を観察する。縁が熟した時には諸行が確かに無常であることを現見し、ついには苦諦を実証する。諸行が苦であることを現見するゆえに、もはや苦を受けようとせず、苦を滅する願いが生じるのである。
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