原文:ここに且つ至教量の理に依る。世尊が説かれたように、諸行は無常なり。また、この諸行は略して二種あり。一は有情世間、二は器世間なり。世尊は彼の有情世間についてこのように説きたまう。比丘よ、知るべし。我は人を超えた清浄なる天眼をもって、諸有情の死時生時を観じ、広く説くならば、身壊れたる後、善趣たる天世界の中に生ずべきことを乃至示す。この法門によって、世尊が清浄なる天眼をもって現に見たまう一切の有情世間は無常性なることを顕わす。
釈:苦諦を観察するには世尊の説かれた至教量の理に依拠すべきである。例えば世尊の説かれた諸行無常の理がそれである。諸行無常は即ち苦なり、諸行無常を観じ行ずることは即ち苦諦と苦集諦を観じ行ずることなり。仏の説かれた諸行無常の「行」には大略二種あり:一つは有情世間、二つは器(非情)世間なり。仏は説きたまう:我は人を超えた清浄なる天眼をもって、諸有情の死時生時を観じ、広く説くならば、身壊れたる後、善趣たる天世界の中に生ずべきことを乃至示す。世尊は清浄なる天眼をもって現に見たまう一切の有情世間は無常性なり。
この段より、世尊は具体的に諸行無常を開示された。行とは生住異滅ある法を指し、生住異滅をなすものは全て行なり、一切の行を諸行と名づけ、諸行は全て無常なり。生住異滅の現象あるが故なり。これらの現象を世尊は清浄なる天眼をもって悉く見通したまう。仏がどの法を見たまうにも、世間と出世間の一切法は全て現見なり、比量思惟や非量の憶測あることなく、智慧が究竟円満なるが故なり。衆生の見る法は現量・比量・非量の三種に分かれるが、仏は完全に現量なり、衆生はそうではない。器世間の無常については、長阿含経中の起世因縁経に説かれる器世間の生住異滅を参照すべし。
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