衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年08月19日    金曜日     第1 回の開示 合計3667回の開示

意根が常に審査し思量するのは脳の中にあるのか、それとも脳の外の虚空にあるのか

意根がもし脳の外で恒常的に審査思量するならば、自己とは関係がなくなります。意根が虚空の中に存在できるなら、それは誰の意根でしょうか。思量の結果を誰が実行するのでしょうか。どうして根塵が接触して六識を生じ、意根の思量にフィードバックできましょうか。故に意根は脳の外の虚空には存在し得ないと言えます。脳の外とはどのような場所でしょうか。必ずしも虚空とは限りませんか。楞厳経に云う「虚空は汝の心内に生じ、一片の雲が太清に点じるが如し」。この心はもちろん如来蔵を指しますが、意根もまた如来蔵に随って虚空を了別する必要があるのでしょうか。では虚空は意根の内側か外側か。あるいは意根は虚空の内側か外側か。意根は黙然と一切の法を容受し了別し、決して色身の内に拘束されません。十方三世の法は如来蔵に随ってことごとく了別されます。ここから、私たちの心の究竟の大きさが分かります。太虚を包摂するのです。

意根もまた識心です。識心は色身の内外や中間に存在せずに運転します。なぜなら識心は形相がなく、色身の中にあるとも外にあるとも言えないからです。しかし意根という識心は、色身の内外一切の法を統括し、如来蔵と共に運転します。如来蔵の存在する所には必ず意根が随従します。如来蔵は単独で何らかの法を運転することはできません(本質境を除く)。意根が存在しない所には生命現象はありません。脳に意根がなくなれば、脳だけでなく全身が機能しなくなり、生命は消滅します。五陰身が接触し得る法はすべて如来蔵が運転するもので、必ず意根が随伴します。意根は如来蔵に依ってこれらを了別します。五陰身が接触できない法もまた如来蔵が運転するもので、同様に意根が随伴し、これらの法も意根は了別できます。

例えばある人が念仏三昧を得て真に極楽往生を願うなら、極楽世界の蓮池に彼の蓮華が現れます。この蓮華は単に彼の如来蔵が化現したものではなく、如来蔵が往生を発願する意根に随って蓮池に建立したものです。では意根は脳の内側か外側で作用しているのでしょうか。この時、意根は脳や色身を離れず、同時に極楽世界にも存在しています。もし意根が脳内のみで作用するなら、極楽世界の蓮華は誰に属するのでしょうか。諸大菩薩の意生身はすべて一つの意根によって統括されますが、各分身の意根は色身の中か外か。

さらに例えば眼識が面前の10人を見る場合、眼識は実際に誰の色相に触れているのでしょうか。10人を同時に見るなら、10人の色相に眼識は同時に触れているのであり、一人だけに触れて他に触れないとは言えません。意根も同様に、如来蔵に依って如来蔵の執持する一切の法に同時に触れ、内外や中間を分けません。勝義根の内外に同じ法があり、脳の内外にも同じ法があり、意根はすべてを縁にし、すべてを思量します。しかし実際には、勝義根を持つ衆生はどこへ行っても勝義根を超えられず、天辺まで行っても勝義根から出ることはできません。意根の恒審思量は一切の法の上にあり、勝義根内の法だけでなく勝義根外の法も思量します。それは身を執するだけでなく法も執し、この執着が最も厄介で、三界世俗の執念から私たちは今も脱却できず、すべての思惟が制限されているのは見識が浅いためです。

——生如法師の開示
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